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山梨県北杜市

教来石民部館跡

2013年10月13日

教来石民部館跡の由来(馬場美濃守信春)
この地鳥原には、昭和63年の発掘調査により、教来石民部館があったことが判っています。館主である教来石氏は、武田家支流の一条氏から派生した在地の武士団、いわゆる武川衆の一員である、武田宗家に忠誠を尽くし、幾多の合戦で勇猛な働きをしたと古来より伝えられています。また、武川衆は、信濃諏訪口の国境防衛にも大きな功績があったと言われています。その中で、教来石氏の封地は、最も国境に近く、この館の持つ重要性も自から知ることができます。
また、教来石民部は、後に抜擢され、武田氏重臣(武田二十四将)の列に加わった馬場美濃守信春で、武田騎馬隊を率いて不敗を誇った勇将であったことはあまりにも有名な話であります。さらに武田家の占領地に築かれた城館の多くは、馬場美濃守の縄張によるものであり、彼がたぐいまれな才能の持ち主であったことがしのばれます。
この館は、教来石氏が一条氏より派生してから、馬場氏を名のるまでの間、武川衆の一員として活躍した代々の居城でありますが、築城から廃城までの年代・城主が明らかな城館は全国的にも少なく、歴史的価値は高いと言えましょう。
(看板資料より)

 



2007年10月21日

 

教来石民部館跡の由来(馬場美濃守信春)
この地鳥原には、昭和63年の発掘調査により、教来石民部館があったことが判っています。館主である教来石氏は、武田家支流の一条氏から派生した在地の武士団、いわゆる武川衆の一員である、武田宗家に忠誠を尽くし、幾多の合戦で勇猛な働きをしたと古来より伝えられています。また、武川衆は、信濃諏訪口の国境防衛にも大きな功績があったと言われています。その中で、教来石氏の封地は、最も国境に近く、この館の持つ重要性も自から知ることができます。
また、教来石民部は、後に抜擢され、武田氏重臣(武田二十四将)の列に加わった馬場美濃守信春で、武田騎馬隊を率いて不敗を誇った勇将であったことはあまりにも有名な話であります。さらに武田家の占領地に築かれた城館の多くは、馬場美濃守の縄張によるものであり、彼がたぐいまれな才能の持ち主であったことがしのばれます。
この館は、教来石氏が一条氏より派生してから、馬場氏を名のるまでの間、武川衆の一員として活躍した代々の居城でありますが、築城から廃城までの年代・城主が明らかな城館は全国的にも少なく、歴史的価値は高いと言えましょう。
(看板資料より)

もうずいぶん前のことになりますが馬場信春の屋敷跡が大河ドラマで紹介されていました。自元寺のお墓とともに紹介されていたので近くにあるに違いないと思い、まず自元寺に寄りました。しかし法事をしていてお寺の人の話を聞くことができず、お寺の庭の手入れをしていた人に聞いて現地に向ってみました。白州中学校に行く途中あたりとのことでしたが見つけることはできませんでした。しかし、馬場性になる前の時代の屋敷跡が鳥原の方にあるとのことでしたのでそちらに行ってみました。しかしそれらしい場所を見つけることができず断念して今度は役場に行って聞いてみることにしました。運良く職員の方がいたので聞いてみましたがよく分からないようでした。あきらめて再び自元寺に行ったらちょうど法事が一段落していたのでお寺の方に聞いてみました。そうしたらテレビで紹介されたのは鳥原の方であるとのことでしたので再び鳥原に戻ってきました。いろいろな人に聞きながら、最後に聞いた方は詳しくて丁寧に場所を教えてくれました。現地は雑草が生い茂ったところで遊歩道と書かれた看板と奥に休憩用の小屋?のようなものがありました。向かいにはビューファーム鳥原平という立派な建物とその奥には八ヶ岳がきれいに見えました。雑草の中に入り込み小屋の方に歩いていってみるとなんと説明文が書かれた案内板がありました。これは中に入っていかないと分からないのでほとんど見られていないものだと思います。


自元寺

 
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