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和歌山県九度山町

真田庵(善名称院)


2005年08月03日

県指定文化財 真田屋敷跡
戦国の武将、真田昌幸・真田幸村父子は慶長5(1600)年関ヶ原の戦で西軍に味方して敗れ、高野山に配流の身となったが、後九度山のこの地で蟄居生活をした。昌幸は、慶長6(1611)年再起を願いながらこの地で65歳の生涯を閉じた。幸村は慶長18(1614)年、子大助ら一族と共に九度山のこの地を出て立ち、大阪城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元(1615)年茶臼山付近で壮烈な最後をとげた。その後、江戸中期の寛保元(1741)年大安上人によって善名称院(真田庵)が創建され現在に至っている。
(看板資料より)

真田庵由緒
真田庵は真田昌幸公及真田幸村公の旧蹟である。昌幸公は信州上田の城主で智謀百出の名将であった。関ヶ原合戦で豊臣家に仕え天と地の利を失って惜敗した。一時高野山に遁れその後寺領九度山に陀住居を持った書は農耕に努め又真田紐を編み夜は天文気象を究め又物理を学び只管軍略の研究に努められた。
慶長18年戦争の危機迫り翌元和元年5月7日大阪夏の陣に出陣して大功を建てたが武運拙く戦死された。毎年5月5日を記念し真田祭を執行して英霊を慰む。

六文銭旗の由来
天正10年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説き伏せた真田父子は三百余人の軍勢を率いて三国峠を過ぎた笠が城で北条氏政の大軍4万5千と対決。その時幸村は14才。父昌幸に「家名を挙げるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか」と言って無紋の旗を取り出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き旗6本を造り味方を6隊に分け敵陣に夜討ちをかけた。北条方は松田が謀反を起こしたと言って大騒動でした。昌幸は幸村にその功を賞め、「お前は今から定紋を六紋銭にする事を許す」と言いました。是が真田の旗印六紋銭の由来です。
(看板資料より)

宝物資料館があったのですが、善名称院の方が不在のためしばらく待っていたらそのうち近所の方?が来られたので入れてもらいました。中には入館料を入れるところもあり、どうやら勝手に入っても良さそうな感じでした。宝物資料館の中には、
・真田幸村公大阪夏の陣使用 槍先
・真田幸村公使用 水馬の鎧
・真田昌幸公自作 木彫の犬
・真田幸村公使用 飯盒
・真田幸村公野営時使用 六紋銭印入り陣幕
などがありました。
地元の小学生が調べた資料を拝見すると、信玄が死んでから大阪夏の陣までのことが丁寧にまとめられており、真田昌幸、幸村父子が高野山ではなくて九度山に蟄居したのは、真田幸村が奥方を連れていたためであることも分かりました。高野山は明治時代まで女人禁制だったようです。


雷封じの井

慶長年間、幸村公が閉居中真田屋敷に落ちた雷をとりおさえて井戸に封じ里人の難を救ったと云ふ。
(看板資料より)


真田昌幸の墓


真田地主大権現

幸運の神地主権現として敬い奉る社であります。是は真田家重大の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀したものであります。昔から福徳を授け給う運の神として遠近を問はず多数の信者が訪れ何事によらず一心に祈願すると霊験あらたかであると伝えられております。
(看板資料より)


真田家臣一族の墓


真田のぬけ穴

真田のぬけ穴は、真田庵から東方約200mぐらいの所に位置し、昔から、地元の人々には「真田のぬけ穴」と言い伝えられてきました。また、この地点から真田庵までを真田氏の造ったぬけ穴と信じてきました。しかし、1953(昭和28)年、発掘調査が行われ、古墳時代後期(4世紀ごろ)につくられた横穴式石室をもった円墳であることがわかりました。
(九度山町ホームページより)

 

 
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