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長野県上田市

長谷寺

2014年09月
28日

真田山長谷寺
当寺は往古「種月庵」という無住の小寺に、天文16(1547)年に真田幸隆公が上州安中の長源寺より晃運和尚を招いて「真田山種月院長谷寺」として創建された。
天正16(1588)年真田昌幸公の代に至り、父幸隆公の菩提のため諸堂を完備するが、慶長5(1600)年には兵火にかかり、また宝暦7(1757)年の火災や、寛保2(1742)年の大洪水では土砂に埋まるなど幾たびもの災害に遭っている。
元和8(1622)年真田信之公が上田より松代に移封の際には6代住職が同行し、松代に「長国寺」を建立している。
明治23年1月、再三の火災で全山焼失し、貴重なもの全てが灰と化してしまった。
現在の本堂は昭和53年に、庫裡・位牌堂は平成元年に再建、鐘楼は平成20年に建てられ現在に至っている。
本堂裏手の墓地には、真田幸隆公夫妻、昌幸公の墓所があり、上田市指定文化財になっている。
(看板資料より)


真田幸隆・昌幸の墓

真田幸隆は永正10(1513)年の生まれと伝えられ、天正2(1574)年吾妻の地に没するまでに真田氏隆盛の礎を築いた。
昌幸は天文16(1547)年の生まれで、兄信綱、昌輝の戦死により家督を継いだ後に上田城を築き、徳川軍を2度にわたり退けたことは世に知られるところである。関ヶ原の戦いの後、高野山九度山に配流され、慶長16(1611)年再び真田の地を踏むことなくこの世を去った。
昌幸の長子信之は、上田から松代に移封となった時、松代に菩提所長国寺を建立したが、旧菩提所真田山長谷寺もよく管理され、幸隆公、幸隆公夫人、昌幸公が懇に弔われている。
真田幸隆 天正2年5月19日没 享年61歳
     笑傲院殿月峯良心大庵主
真田昌幸 慶長16年6月4日没 享年65歳
     長谷寺殿一翁干雪大居士
中央が幸隆公、左が幸隆公夫人、右が昌幸公の墓
(看板資料より)


真田信繁(幸村)公供養塔




2012年03月
17日

真田山長谷寺
当寺は往古「種月庵」という無住の小寺に、天文16(1547)年に真田幸隆公が上州安中の長源寺より晃運和尚を招いて「真田山種月院長谷寺」として創建された。
天正16(1588)年真田昌幸公の代に至り、父幸隆公の菩提のため諸堂を完備するが、慶長5(1600)年には兵火にかかり、また宝暦7(1757)年の火災や、寛保2(1742)年の大洪水では土砂に埋まるなど幾たびもの災害に遭っている。
元和8(1622)年真田信之公が上田より松代に移封の際には6代住職が同行し、松代に「長国寺」を建立している。
明治23年1月、再三の火災で全山焼失し、貴重なもの全てが灰と化してしまった。
現在の本堂は昭和53年に、庫裡・位牌堂は平成元年に再建、鐘楼は平成20年に建てられ現在に至っている。
本堂裏手の墓地には、真田幸隆公夫妻、昌幸公の墓所があり、上田市指定文化財になっている。
(看板資料より)


真田幸隆・昌幸の墓

真田幸隆は永正10(1513)年の生まれと伝えられ、天正2(1574)年吾妻の地に没するまでに真田氏隆盛の礎を築いた。
昌幸は天文16(1547)年の生まれで、兄信綱、昌輝の戦死により家督を継いだ後に上田城を築き、徳川軍を2度にわたり退けたことは世に知られるところである。関ヶ原の戦いの後、高野山九度山に配流され、慶長16(1611)年再び真田の地を踏むことなくこの世を去った。
昌幸の長子信之は、上田から松代に移封となった時、松代に菩提所長国寺を建立したが、旧菩提所真田山長谷寺もよく管理され、幸隆公、幸隆公夫人、昌幸公が懇に弔われている。
真田幸隆 天正2年5月19日没 享年61歳
     笑傲院殿月峯良心大庵主
真田昌幸 慶長16年6月4日没 享年65歳
     長谷寺殿一翁干雪大居士
中央が幸隆公、左が幸隆公夫人、右が昌幸公の墓
(看板資料より)

 



2003年09月
23日

真田幸隆夫妻及び昌幸の墓
真田昌幸は上田城を築き、初代上田城主となり、二代信之の時松代へ移封となる。この時松代に菩提所長国寺を建立したが、旧菩提所真田山長谷寺もよく管理されて現在にいたる。
(看板資料より)

長谷寺は真田町の奥の静かな山間にありました。お寺の裏にまわると真田父子の墓があります。右から真田昌幸(真田幸隆の三男)、真田幸隆(一徳斎)、真田幸隆夫人の墓が並んでいました。

 

 
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