三ヶ野坂古戦場 |
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戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されている。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。
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2005年01月30日 |
古戦場 大日堂
戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されている。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。 |
三ヶ野坂の七つ道 武田軍は、青崩峠及び兵越峠を越えて、犬居城から只来、飯田などの城を屠った後に木原というところに陣を敷いたらしい。一方徳川軍は大久保忠世、本多忠勝、内藤信成ら四千の軍が見付に布陣し、内藤信成の斥候隊が大日堂に向った際に武田方との衝突が起き、この時の戦いが三ヶ野坂の戦いと言われているという話もあるらしい。その後一言坂での戦いを経て徳川軍はいったん浜松城に戻るが、武田軍は二俣城攻略のため進路を再び北に向けることになる。 |