二俣城をめぐる攻防
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)までの7年間、二俣城は徳川、武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で遠州平野の「扇の要」であったからである。
<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2ヶ月ほどで二俣城は陥落した。
<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂、蜷原、渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7ヶ月で兵糧が底をつき城を明渡した。そして二俣城には大久保田忠世が入城し、徳川が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。この間大規模な修築がなされ天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。
(看板資料より)
徳川信康自刃事件
大久保忠世が在城中に起こった事件として有名なものに家康の嫡子信康自刃事件がある。一般には信康とその母築山御前が武田と通じていたことを理由に、織田信長が信康を切腹させるよう家康に命じたとされている。家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。この事件は戦国哀史として広く知られている。
(看板資料より)
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