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静岡県浜松市

鳥羽山城

 
2013年12月31日

二俣城とは二俣川を挟んで向き合う地点の鳥羽山に築かれた城である。北から南下して流れてきた天竜川が大きくカーブするため三方を川によって囲まれ、南東部のみ峰続きとなり二ヶ所の堀切を構築することによって防備を堅くした。眼下に天竜川を望む鳥羽山城は、周辺にある蜷原砦、和田ヶ島砦、毘沙門砦と同時期の天正3(1575)年に、家康によって二俣城攻略のため築城されたもので、5ヶ所の陣城中、最大の規模と築城工法の堅固さをほこり、おそらくその中心的役割を果たしたと考えられる。小字を「本城山」ということからも、二俣城攻めの本陣は、鳥羽山城に置かれていたと考えられ、城攻めの主将であった大久保忠世が守備したという。
(日本城郭大系より)

鳥羽山城は天竜川に臨み、支流二俣川を隔て二俣古城に対峙、遠州平野や、北方の山並みが望める標高108mの俗に本城山と呼ぶ山頂に築かれており、二俣城とは別郭一城の関係にある城館的色彩の濃い山城である。
江戸前期の兵学者山鹿素行の著した「武家事記」の「三方ヶ原合戦図附総図」には二俣新城と記入されている。
天正3(1575)年徳川家康が武田軍の守る二俣城を攻略する時鳥羽山に本陣をしき、天竜川の対岸和田島、二俣川の向う毘沙門堂に砦を置いて二俣城を方位したことは世に知られている。
主郭の四囲の山腹、山麓には各種の遺構がある。土塁、石垣、門、井戸、建築跡、庭石のほか昭和50年の発掘調査により、侍屋敷、家老屋敷、蔵屋敷、暗渠跡などが発見されている。
戦国時代の城館で庭園や泉水を伴うものは全国でもまれで、特に家老屋敷や蔵屋敷に遺存する岩盤利用の枯山水の鳥羽山城庭園は文化史上貴重な遺跡である。
(看板資料より)

鳥羽山城は標高108mの鳥羽山(本城山)に築かれ、二俣城(城山)とは別郭一城の関係にある城館的色彩の濃い山城です。城の構造は、城山と二俣川を隔てた丘陵に築かれ、各曲輪は稜線上に西から東へ伸びており(阿蔵方面)規模はかなり広いと想定されます。主郭は丘陵西端の最も高い位置に築かれ、その形は丸型で土塁を巡らし、外側の基部に石垣を巡らしています。
遺構としては石垣・建物の礎石・水抜きの暗渠・井戸・庭園等があります。主郭南端からの展望はよく開け、南正面に浜松、南東に磐田原台地(その北端に社山城)が良く見え、二俣の三城(笹岡・城山)の中では最も防御によい地形です。
築城は徳川家康領有時代(大久保忠世在城、天正3〜18)と思われますが、最近は浜松城主堀尾吉晴領有時代(天正18〜慶長5)という説もあります。
(看板資料より)



2012年02月12日

二俣城とは二俣川を挟んで向き合う地点の鳥羽山に築かれた城である。北から南下して流れてきた天竜川が大きくカーブするため三方を川によって囲まれ、南東部のみ峰続きとなり二ヶ所の堀切を構築することによって防備を堅くした。眼下に天竜川を望む鳥羽山城は、周辺にある蜷原砦、和田ヶ島砦、毘沙門砦と同時期の天正3(1575)年に、家康によって二俣城攻略のため築城されたもので、5ヶ所の陣城中、最大の規模と築城工法の堅固さをほこり、おそらくその中心的役割を果たしたと考えられる。小字を「本城山」ということからも、二俣城攻めの本陣は、鳥羽山城に置かれていたと考えられ、城攻めの主将であった大久保忠世が守備したという。
(日本城郭大系より)

大手門

鳥羽山城は天竜川に臨み、支流二俣川を隔て二俣古城に対峙、遠州平野や、北方の山並みが望める標高108mの俗に本城山と呼ぶ山頂に築かれており、二俣城とは別郭一城の関係にある城館的色彩の濃い山城である。
江戸前期の兵学者山鹿素行の著した「武家事記」の「三方ヶ原合戦図附総図」には二俣新城と記入されている。
天正3(1575)年徳川家康が武田軍の守る二俣城を攻略する時鳥羽山に本陣をしき、天竜川の対岸和田島、二俣川の向う毘沙門堂に砦を置いて二俣城を方位したことは世に知られている。
主郭の四囲の山腹、山麓には各種の遺構がある。土塁、石垣、門、井戸、建築跡、庭石のほか昭和50年の発掘調査により、侍屋敷、家老屋敷、蔵屋敷、暗渠跡などが発見されている。
戦国時代の城館で庭園や泉水を伴うものは全国でもまれで、特に家老屋敷や蔵屋敷に遺存する岩盤利用の枯山水の鳥羽山城庭園は文化史上貴重な遺跡である。
(看板資料より)

鳥羽山城は標高108mの鳥羽山(本城山)に築かれ、二俣城(城山)とは別郭一城の関係にある城館的色彩の濃い山城です。城の構造は、城山と二俣川を隔てた丘陵に築かれ、各曲輪は稜線上に西から東へ伸びており(阿蔵方面)規模はかなり広いと想定されます。主郭は丘陵西端の最も高い位置に築かれ、その形は丸型で土塁を巡らし、外側の基部に石垣を巡らしています。
遺構としては石垣・建物の礎石・水抜きの暗渠・井戸・庭園等があります。主郭南端からの展望はよく開け、南正面に浜松、南東に磐田原台地(その北端に社山城)が良く見え、二俣の三城(笹岡・城山)の中では最も防御によい地形です。
築城は徳川家康領有時代(大久保忠世在城、天正3〜18)と思われますが、最近は浜松城主堀尾吉晴領有時代(天正18〜慶長5)という説もあります。
(看板資料より)

駐車場が色々な場所にありましたが、大手門の方にトイレつきの舗装された駐車場があり、私はそこに車を止めました。階段を登って行くと大手門の先にすぐ本丸がありました。本丸の周辺は大きな土塁で囲まれていていました。私は天竜川沿いの土塁の上を歩いて搦手門に行きました。搦手門側には展望台や広場などがありました。全体的にきれいに整備された公園になっていました。

 

 
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