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静岡県浜松市

浜松城

2015年02月07日

天守閣

浜松城の沿革
浜松城は徳川家康が築いたものです。家康は永禄11年(1568年)に三河から遠江に入り、各地を転戦して、引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、浜松城の築城に着手しました。元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めました。
家康は29歳の時にこの浜松城に移り天正14年(1586)45歳で駿府城に入るまで在城17年の長きに及んでいます。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもみなこの期間い行なわれ、特に元亀3年(1572)の三方原合戦は家康の生涯における敗戦で、関ヶ原合戦以上の戦でした。家康にとってこの浜松在城の17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の年でもあったわけで、浜松城が出世城といわれるのもけだし当然といえます。
城郭は南北約500米、東西約450米の地域にわたり、三方原台地の斜面に沿って天守閣、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一線に並び、いわゆる梯郭式の築城法に属しています。その他作左曲輪、出丸等もあり、古城と称する個所は引馬城の跡といわれています。また現存する石垣は、築城当時そのままのもので野戦城にふさわしく粗けずりの岩を使って頑丈に構築してあります。
家康の後、浜松城は豊臣の家臣堀尾氏が城主となりましたが、江戸に幕府が開かれてからは、代々譜代大名にこれを守らせました。その石高はおおむね5万石前後でした。城主として有名なのは天保の改革を行なった水野越前守忠邦です。忠邦は肥前唐津にいましたが、その栄進を望んですすんで浜松城主になったといわれています。
明治維新以後、城郭は壊されすっかり荒廃に帰して、苔むす石垣にわずかに当時の面影をしのぶばかりですが、昭和34年6月1日、市の史跡に指定されました。
昭和33年春、浜松市民の努力がついに実を結び、旧天守閣跡に立派な新天守閣の再建を見るにいたりました。
(天守閣内の資料より)

天守曲輪
浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手の埋門を配置している。
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点が特徴である。これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。また曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。
(看板資料より)

天守曲輪の礎石
浜松市では平成21年度から天守門跡の発掘調査を行い、建物の痕跡をを確認した。「安政元(1854)年浜松城絵図」の天守門が描かれている場所からは、長軸1.0〜1.4m、短軸0.9〜0.7mほどの扁平な礎石が4箇所と、礎石の抜取穴2箇所が発見され、門柱の配置や門扉の大きさが確認された。
また、建物の屋根瓦や鯱瓦の一部、土塀の瓦も多数確認された。門の両脇の石垣上部からは、壁から剥がれ落ちた漆喰の痕跡も見つかっており、江戸時代の天守門の姿を明らかにする際の参考にした。
礎石に残る門柱6本は、不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置される。このような柱の配置は、桃山時代から江戸時代初期の櫓門にみられることから、天守門は幕末まで古式名城門の特徴を継承していたことがわかる。
天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、新しい礎石と門柱を配置した。石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩である。
(看板資料より)

浜松城の石垣
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに見えますが、四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。
この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで済む野面積みという方式です。慶長以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。各段の積み方は、布積と呼ばれる、石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。しかし石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩しと呼ばれることもあります。
不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内にして積みます。隙間に背後から飼石を入れて、石が動かないように固定します。背後(内側)には多量の栗石を詰めて強化します。栗石は約1〜1.5mほど詰めてあり、更に砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはありません。
石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあります。これを間石と呼びます。この石は石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。
浜松城は特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を、小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57〜78度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる石がほとんどで、その他石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで舟によって運ばれ、そして浜松城まで運ばれたと推定されています。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、浜町城二代目城主堀尾吉晴の頃という説が有力です。
(看板資料より)

天守曲輪の石垣
天守曲輪に残る石垣は、斜面上半部だけに石を積んだ「鉢巻石垣」に分類できる。石垣の平面形には屏風折や出隅、入隅が随所に見られる。こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。
邪は輪取りともいい、天守曲輪西側の埋門南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。さらに南に行くと、一旦鎬隅になった後に屏風折がある。いずれも横矢掛という防御の技法で天守曲輪からの死角をなくすことができ、防御機能が高くなる。
天守曲輪南東側には出隅があり、このような部分が大規模になると櫓が建てられる。一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。
(看板資料より)


天守門

浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6(1873)年に解体され、払い下げられた。「安政元(1854)年浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の一部が潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。
絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り。
1.構  造:木造・櫓門・入母屋造り、本瓦葺
2.建築面積:78.01u、延床面積 56.74u
3.門  部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m
4.櫓  部:桁行10.91m、梁間5.00m
5.高  さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)
6.土  塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ
(看板資料より)

浜松城ニの丸跡
「二の丸」は「本丸」の東側に位置し土地も一段低く、広さがおよそ4950平方メートル(約1500坪)で城主の居館がありました。また、政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心でした。
「二の丸」の主な建物は「表御殿」と「奥御殿」からなっていて、「表御殿」には藩の行政機関が置かれ、およそ1650平方メートル(約500坪)ありました。唐破風の玄関の奥に広間と使者の間、正面奥に近習・年寄詰め所・祐筆所と並び、その左側に藩主が執政に使う上段の間と書院、右側には御用所・勘定所・勝手などの部屋がありました。
「奥御殿」はおよそ330平方メートル(約100坪)で、左側が藩主の居間、右側が湯殿、小姓詰め所など計15の部屋がありました。両御殿とも、生活と執務に便利なように細かく部屋割りがされていました。
また、二の丸の北の広場には米蔵があって、御城米蔵とか八千蔵と呼ばれていました。西側には二代将軍徳川秀忠の誕生屋敷ということで、享保元(1716)年の絵図には誕生の松が描かれています。
現在、二の丸跡地は浜松市役所・浜松市立元城小学校の一部となっています。
(看板資料より)



2013年01月27日

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元(1570)年6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
(看板資料より)


八幡台

ここは天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高い。面積はおよそ40u(12坪)あり、浜松城のなかで最も高い所である。
城を守る神社(多分八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれる。八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。
(看板資料より)


二の丸から見た天守閣



2001年08月12日
浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここはその天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
(看板資料より)

天守台と天守閣
天守台は天守曲輪の内部にあり、ほぼ長方形をして周りは石垣で囲まれている。天守閣への上り口は一ヶ所で広場の南側から三回屈曲した石段を上がると東向きの天守閣正面に達する。面積は240u(およそ70坪)である。天守台には天守閣が置かれていたはずであるが江戸中期の絵図には描かれていない。現在の天守閣は昭和33年に再建された。
(看板資料より)


浜松城の沿革
浜松城は徳川家康が築いたものです。家康は永禄11年(1568年)に三河から遠江に入り、各地を転戦して、引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、浜松城の築城に着手しました。元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めました。
家康は29歳の時にこの浜松城に移り天正14年(1586)45歳で駿府城に入るまで在城17年の長きに及んでいます。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもみなこの期間い行なわれ、特に元亀3年(1572)の三方原合戦は家康の生涯における敗戦で、関ヶ原合戦以上の戦でした。家康にとってこの浜松在城の17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の年でもあったわけで、浜松城が出世城といわれるのもけだし当然といえます。
城郭は南北約500米、東西約450米の地域にわたり、三方原台地の斜面に沿って天守閣、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一線に並び、いわゆる梯郭式の築城法に属しています。その他作左曲輪、出丸等もあり、古城と称する個所は引馬城の跡といわれています。また現存する石垣は、築城当時そのままのもので野戦城にふさわしく粗けずりの岩を使って頑丈に構築してあります。
家康の後、浜松城は豊臣の家臣堀尾氏が城主となりましたが、江戸に幕府が開かれてからは、代々譜代大名にこれを守らせました。その石高はおおむね5万石前後でした。城主として有名なのは天保の改革を行なった水野越前守忠邦です。忠邦は肥前唐津にいましたが、その栄進を望んですすんで浜松城主になったといわれています。
明治維新以後、城郭は壊されすっかり荒廃に帰して、苔むす石垣にわずかに当時の面影をしのぶばかりですが、昭和34年6月1日、市の史跡に指定されました。
昭和33年春、浜松市民の努力がついに実を結び、旧天守閣跡に立派な新天守閣の再建を見るにいたりました。
(天守閣内の資料より)


本丸
天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。普通の城は天守閣を取り囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下に作られた。周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅には二層の菱櫓を置いた。本丸内の建物については詳しいことは分かっていない。(看板資料より)

二の丸
本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治を行なう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ5000u(1500坪)。主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。(看板資料より)


浜松城の石垣

浜松城の石垣は見るからに荒々しい。自然石を上下に組み合わせて積み上げたもので、表面に石のすき間もあるが、奥が深く堅固である。外観は粗雑でちょっと見ると崩れやすいようであるが四百年の風雪に耐え、今なお戦国時代の面影を残している。
このような積み方を野面積という。使った石は舘山寺の東の大草山、根本山、浜名湖の西の湖西市知波田方面にある珪岩である。
(看板資料より)

 



1984年03月26日

 
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