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静岡県浜松市

引馬城

2015年02月07日

徳川家康は永禄12年5月掛川城に籠もる今川氏真を降伏させ、氏真は北条氏を頼って伊豆の戸倉に入り、ここに戦国大名としての今川氏は実質上滅亡することになったが、同時にこのことは、遠江が家康の掌中に入ったことを意味した。
そこで家康は居城が岡崎では三河・遠江2か国を支配する上で西に片寄りすぎていると考え、遠江に居城を築くことになった。初め家康の本城として計画されたのは見付であった。ここは古代から遠江の国府があった地で、政治上の中心地であり、かつて遠江の守護今川氏も本拠をおいた所である。見付の城はふつう城之崎城の名で呼ばれているが、縄張りも行われ、実際に土塁なども構築され始めたが、突然中止され、代って引馬城が本拠地として選ばれることになった。『当代記』は、この時移城の理由として、天竜川の東では、信長の支援を受けるのに不便だとの信長の意見に従ったものとしている。確かにそのようなことも理由の一つではあろうが、より根底には、城之崎城よりは引馬城の方が、引馬の市といわれるほどの経済的な中心地をなしており、より発展性があるものと考えたためであろう。
こうして元亀元(1570)年6月、家康は、飯尾氏時代の引馬城に入ったが、同時に名を浜松と改めた。改めたとはいっても、以前からその付近一帯は浜松荘の名で呼ばれており、城名を荘名にちなんで浜松城としたのである。浜松城はかつての飯尾氏時代の引馬城の西方の高地を中心に築城されたもので、引馬城もその一郭としてとりこまれた。
(日本城郭大系より)

 



2013年01月27日

徳川家康は永禄12年5月掛川城に籠もる今川氏真を降伏させ、氏真は北条氏を頼って伊豆の戸倉に入り、ここに戦国大名としての今川氏は実質上滅亡することになったが、同時にこのことは、遠江が家康の掌中に入ったことを意味した。
そこで家康は居城が岡崎では三河・遠江2か国を支配する上で西に片寄りすぎていると考え、遠江に居城を築くことになった。初め家康の本城として計画されたのは見付であった。ここは古代から遠江の国府があった地で、政治上の中心地であり、かつて遠江の守護今川氏も本拠をおいた所である。見付の城はふつう城之崎城の名で呼ばれているが、縄張りも行われ、実際に土塁なども構築され始めたが、突然中止され、代って引馬城が本拠地として選ばれることになった。『当代記』は、この時移城の理由として、天竜川の東では、信長の支援を受けるのに不便だとの信長の意見に従ったものとしている。確かにそのようなことも理由の一つではあろうが、より根底には、城之崎城よりは引馬城の方が、引馬の市といわれるほどの経済的な中心地をなしており、より発展性があるものと考えたためであろう。
こうして元亀元(1570)年6月、家康は、飯尾氏時代の引馬城に入ったが、同時に名を浜松と改めた。改めたとはいっても、以前からその付近一帯は浜松荘の名で呼ばれており、城名を荘名にちなんで浜松城としたのである。浜松城はかつての飯尾氏時代の引馬城の西方の高地を中心に築城されたもので、引馬城もその一郭としてとりこまれた。
(日本城郭大系より)

引馬城跡といわれている所は現在は東照宮があります。確かに周辺は崖になっていますが規模は小さいです。東照宮周辺を歩いてみましたが、特に遺構等は確認できませんでした。場所は浜松城のすぐ東側であり、当時は浜松城の一郭となっていたのでしょう。

 
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