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愛知県岡崎市

広祥院

2014年03月29日

住昔
往古は真言密乗の宗旨で深恩院総持寺と称し、創建は吉野朝時代建武年中(約640年前)足利源尊氏公征夷大将軍となり、執権高師重に台命し当地に八幡の社と合併せし堂宇伽藍を建立し、大日如来を本尊として安置、寺領当村近郷日近七郷を御寄附御朱院御判物等を納めしも、高師泰、延文年中に現在の岡崎市菅生え院寺を移し妹心妙を尼として住持となす。尚すべての寺領朱印も移したので自然深恩院は廃寺となった。
(広祥院パンフレット資料より)

奥平家墓所


おふうの墓

おふうの墓
おふうは、日近の城主二代目、奥平久兵衛貞友の娘である。元亀元(1570)年、奥平本家の仙千代(仙丸)、日近家のおふう等は武田方の人質として送られた。しかし天正元(1573)年、奥平氏は武田にそむいたので、仙千代らは鳳来寺口で処刑され、さらし首となった。そこで乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。
ここがおふうの墓所である。向って左がおふう、中央がおふうの祖母貞子、右が仙千代である。なお、おふうはおやす、おつう、おあわ、おひさ等とも呼ばれていた。
(看板資料より)

千丸、お安、墓所
長篠合戦時の城主奥平九八郎信昌公の弟千代丸君14才、日近城家老貞友の娘お安16才人質となり鳳来寺山にて斬首。其の後当地の僧永順、百姓助左ェ門2人にて盗み帰り夏山遊泉寺に葬りしも、后祖母貞子姫の懇望により隠居所般興庵に奉安供養をなす。尚、千代丸君の一石五輪塔は珍墓とされている。
(広祥院パンフレット資料より)



2005年02月11日

本堂

住昔
往古は真言密乗の宗旨で深恩院総持寺と称し、創建は吉野朝時代建武年中(約640年前)足利源尊氏公征夷大将軍となり、執権高師重に台命し当地に八幡の社と合併せし堂宇伽藍を建立し、大日如来を本尊として安置、寺領当村近郷日近七郷を御寄附御朱院御判物等を納めしも、高師泰、延文年中に現在の岡崎市菅生え院寺を移し妹心妙を尼として住持となす。尚すべての寺領朱印も移したので自然深恩院は廃寺となった。
(広祥院パンフレット資料より)


おふうの墓
おふうは、日近の城主二代目、奥平久兵衛貞友の娘である。元亀元(1570)年、奥平本家の仙千代(仙丸)、日近家のおふう等は武田方の人質として送られた。しかし天正元(1573)年、奥平氏は武田にそむいたので、仙千代らは鳳来寺口で処刑され、さらし首となった。そこで乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。
ここがおふうの墓所である。向って左がおふう、中央がおふうの祖母貞子、右が仙千代である。なお、おふうはおやす、おつう、おあわ、おひさ等とも呼ばれていた。
(看板資料より)

千丸、お安、墓所
長篠合戦時の城主奥平九八郎信昌公の弟千代丸君14才、日近城家老貞友の娘お安16才人質となり鳳来寺山にて斬首。其の後当地の僧永順、百姓助左ェ門2人にて盗み帰り夏山遊泉寺に葬りしも、后祖母貞子姫の懇望により隠居所般興庵に奉安供養をなす。尚、千代丸君の一石五輪塔は珍墓とされている。
(広祥院パンフレット資料より)

おふうは奥平仙千代や虎之助らとともに鳳来寺門谷で処刑されましたが、後に首はこの広祥院に運ばれたとのことですのでここが首塚ということになるのでしょうか。またここにも千丸(仙千代)の墓と言われているものがありました。


奥平家墓所

右から順に、貞昌公、貞勝公、貞直(貞頼)公、貞能公、貞友公、貞友の子の墓といわれているとのこと。木片に名前が書かれたものが置いてありましたが古くなってしまっていてどれがどれに対応するのか良く分かりませんでした。しかし現在新しいものを作る準備をしているとのことでした。
また、奥平家臣の墓は日近城本曲輪奥にあるとのことでしたが見つけることはできませんでした。


日近城
奥平仙千代の墓
於フウの墓
虎之助の墓
遊仙寺

 

 
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