遊仙寺 |
2014年03月29日 |
仙丸の墓
戦国時代奥平氏は、今川、織田、武田、徳川の覇者に囲まれた中で、三河作手に拠点を置き勢力の拡大を図ってきた。元亀元(1570)年武田方であった時、本家奥平貞能は次男仙丸(10歳)と日近の奥平貞直の娘おふう、萩の周防勝次の子虎之助の三人を人質として信州武田方に送った。その3年後、奥平氏は武田氏に反旗をひるがえし徳川方についた。怒った勝頼は天正元(1573)年9月21日仙丸等人質を殺害し、鳳来寺でさらし首にした。奥平氏はその首を奪い取り、打掛けに包んで持ち帰ったという。 戦国の世は無情です。天正元年8月、奥平家は遂に滝山合戦を断行しました。怒った武田勝頼は三人の奥平人質を鳳来町門谷で殺害しました。信昌(貞昌)の弟の仙丸と、日近久兵衛貞友の娘おふう、更に萩の周防勝次の男虎之助でした。悲報に接した父貞能は乳母某と柳田の僧永順、日影の百姓助右衛門等に命じて夜陰に乗じて仙丸の首を奪い取り、夏山の遊仙寺と広祥院に葬りました。 |
乳母と虎之助の墓
黒屋重吉の墓
2005年02月11日 |
黒屋重吉の墓
黒屋氏は鳳来町大草の出身で、奥平氏の家臣である。人質仙丸の守役だった重吉は仙丸に先立って切腹して果てたという。また子孫の方が記した顕彰碑がある。 |
顕彰碑
2週間前に遊仙寺に来たときに右奥に立ち並んでいる、家臣らの墓の写真は一番下の写真のように撮影していましたが、このうち一番右側の大きなものが黒屋重吉の墓であり、仙丸切腹の方法を示して先に果てたとの記載を額田町ホームページで見て、黒屋重吉は黒屋甚九郎のことであると分かり、今回近くまで来たので再び立ち寄りました。 |
2005年01月30日 |
仙丸の墓
戦国時代奥平氏は、今川、織田、武田、徳川の覇者に囲まれた中で、三河作手に拠点を置き勢力の拡大を図ってきた。元亀元(1570)年武田方であった時、本家奥平貞能は次男仙丸(10歳)と日近の奥平貞直の娘おふう、萩の周防勝次の子虎之助の三人を人質として信州武田方に送った。その3年後、奥平氏は武田氏に反旗をひるがえし徳川方についた。怒った勝頼は天正元(1573)年9月21日仙丸等人質を殺害し、鳳来寺でさらし首にした。奥平氏はその首を奪い取り、打掛けに包んで持ち帰ったという。 戦国の世は無情です。天正元年8月、奥平家は遂に滝山合戦を断行しました。怒った武田勝頼は三人の奥平人質を鳳来町門谷で殺害しました。信昌(貞昌)の弟の仙丸と、日近久兵衛貞友の娘おふう、更に萩の周防勝次の男虎之助でした。悲報に接した父貞能は乳母某と柳田の僧永順、日影の百姓助右衛門等に命じて夜陰に乗じて仙丸の首を奪い取り、夏山の遊仙寺と広祥院に葬りました。 |
乳母と虎之助の墓
本堂に向って右側奥には家臣のものと思われる墓が数基残されていた。中央の石碑には山崎半兵衛と書かれている。 夏山を目指して行きましたが道が狭くなってきて心細くなってきたので場所を尋ねたら既に通り過ぎていました。遊仙寺はお寺らしくない建物です。向って左側の奥の小高いところににきれいに整備された墓があり、これが仙丸の墓といわれているものだそうで、そのすぐ右側には乳母と虎之助の墓といわれているものもありました。 |