人質 於フウの墓(日近城主奥平貞友の女)
作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の次男仙丸、萩城主周防勝次の男虎之助と共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が徳川氏に帰参したのを怒った武田勝頼の命により、山県昌景によって同年9月21日にこの地において処刑された。享年16才。
(看板資料より)
観来館の方に現地まで案内してもらいました。場所は分かりづらいですが、鳳来寺の入口から田峯の方に向って進み、坂を降る途中の道の左脇にあります。我々は小立砕石株式会社と書かれた看板のところに車を止めさせてもらって、道路を渡ったところのガードレールの間から階段を下りていきました。ガードレールのところにも於フウの墓と書かれた看板がありましたが非常に小さいものですので車で通過しても多分気づかないと思います。場所が分からなくなったら観来館で聞きましょう。
於フウの墓と書かれた石仏は真新しく、近年作られたものであることがすぐに分かると思います。以前はこの下に走っていた田口線のあたりに於フウの墓があったそうですが、こちらに移されたのだそうです。下には鳳来寺小学校も見えました。
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