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愛知県新城市

虎之助の墓

2004年12月11日

人質 虎之助の墓(萩城主奥平周防勝次の男)
作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の二男仙丸、日近城主奥平貞友の女於フウと共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が徳川氏に帰参したのを怒った武田勝頼の命により、山県昌景によって同年9月21日にこの地において処刑された。享年16才。
(看板資料より)

虎之助の墓といわれているところは、鳳来町役場から鳳来寺に向う道を進み、消防署を通り過ぎた一番高いところから左に入っていく道の所の上にあります。その下には分かりやすいように「虎之助の墓」と書かれた看板がありました。そこから少し進んで左側の人家の前を通りすぎ、山の上に登って行った一番上に虎之助の墓と書かれた比較的新しいものと、それに向かい合ったように立っている幾つかの塔がありました。彼の話によれば、ここは黒屋一族の墓であり、虎之助が処刑されたところでもあるとのことでした。黒屋一族の墓と思われる右側には幾つかの石仏が並んでいましたが、これは当時このあたりは鳳来寺へお参りする街道だったので道祖神であるとのことでした。この下に走っている道路は後に車道として切り開かれたものなのだそうです。確かに当時の街道を偲ばせるような道跡も残されていました。
黒屋はもともと黒谷というのが正しいらしいです。黒屋氏は代々奥平氏の家老の家柄で、奥平氏の本拠地は今の作手町にある亀山城ですが黒屋氏の本拠地はこの鳳来寺の麓の門谷だったのだそうです。

 

 
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