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愛知県新城市

大通寺

2014年08月15日

本堂

大通寺と盃井戸
達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。
(看板資料より)

盃井歌碑
盃の井にて 浩
これまでと汲みかはしたる盃の
みづもみにしむ長篠の里
この歌は明治13年12月、当時名古屋鎮台の参謀山川浩大佐(後に陸軍少将男爵貴族院議員)が現地を訪れた時詠まれたものである。
(看板資料より)

盃井戸
大通寺の裏に水の絶えることのない泉があります。
天正3年長篠の戦いの折り、設楽原の決戦に赴く武田方の武将馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次らが、この泉の水を飲んで別れの水盃を交わしたことから、以降この泉は盃井戸と呼ばれるようになりました。
(看板資料より)

大通寺杯井

5月19日医王寺山本陣で軍議を終えた諸将は、それぞれの自分の陣地へ戻った。
馬場信房(信春)は、決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自分の陣所である大通寺山に同道して、ますはこの日の軍議を嘆き、このような事態になった上は、明日の一戦は一命を賭して戦うだけである。共に信玄公に引き立てられ、勝頼公の今に至るまで戦場を疾駆したことは数え切れないが、幸い今日まで命を永らえた。けれども、明日の一戦は最後となろう。とお互いに旧友を謝し、明日の奮戦を誓い、今生の別れとして泉の水を馬柄杓で汲み寄せ、腰に挟んだ水呑みを以てこれを飲んだ。
(看板資料より)


城藪稲荷

長篠城鎮守の稲荷のお使いであった、おとら狐を祀る。
長篠の戦いの後、本社は城の移転に伴って移り、もとの稲荷は末社として残された。
ところが残された末社を誰も祀らなくなったため、おとら狐はこれを恨み周辺を荒らしまわったり、人に取りついて重い病とした。
そこで人々はこれを鎮めるため、おとら狐を城藪稲荷として祀ったと伝えられる。
現在では、様々な願いをかなえて下さるお稲荷様として厚い信仰を集めている。
長篠古城址が文化財として保全されるにあたり、平成18年に大通寺境内に移転、安置された。
(看板資料より)

 



2005年02月11日

大通寺と盃井戸
達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。
(看板資料より)

盃井歌碑
盃の井にて 浩
これまでと汲みかはしたる盃の
みづもみにしむ長篠の里
この歌は明治13年12月、当時名古屋鎮台の参謀山川浩大佐(後に陸軍少将男爵貴族院議員)が現地を訪れた時詠まれたものである。
(看板資料より)

大通寺の盃井戸とは別に同じような話が残されているのが武田諸将訣盃之跡であり、ここにも先日訪れたが大通寺の方が長篠城に近いのでもしこちらだとするとより早い時期に盃を酌み交わしていたのでしょう。ちなみに「長篠日記」、「三州長篠合戦記」などには大通寺で最後の盃を交わしたと記されている。また盃を酌み交わしたのは馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の四将といわれているらしいのですがこの出典は不明です。


武田諸将訣盃之跡

 

 
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