日近城 |
2014年03月29日 |
本丸
日近城の歴史 |
広祥院は現在曹洞宗の寺院で、寺伝によると暦応2(1339)年足利氏の執事であった高氏の創立という。高氏は菅生郷、比志賀郷(日近)を所有していて、永仁4(1296)年総持尼寺の住寺であった高師氏の娘心妙に比志賀郷を譲与したという。時を経て比志賀郷の方の寺院は廃れてしまったが、文明年間(1469〜)作手の奥平氏三代貞昌が日近城(名之内城)を築き、山麓の廃れていた寺院を深恩山広祥院として再興した。本尊は地蔵菩薩で、その胎内に像高16センチ程の木造地蔵菩薩坐像が納められています。貞昌公の御持仏と伝えられ、市の指定文化財となっています。 |
奥平監物貞昌公、文明年間中、南設楽郡作手村川尻城より、当日近城を本城として移り玉う。永正9年貞勝公、永正11年貞頼公誕生。当村八幡宮は御氏神なり。貞昌公川尻へ引取後、貞頼公城主となり、又其の子、貞友が守り、天正元年長篠合戦時には息女おやすを人質となす。 |
奥平監物貞昌公、作手川尻城より当地に移住。日近城を築城居城となす。現在は当院裏山、標高400メートル、本丸跡に秋葉山鎮守奥平家墓一基あり、まわりに砦屋敷跡3ヶ所馬はしり場跡等あり。当院の近くは全部武家屋敷、隠居所等ありしも今は山林、畑と化し、石垣のみが昔日の跡を止めている程度なり。
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2005年02月11日 |
本曲輪
日近城の歴史 |
奥平監物貞昌公、文明年間中、南設楽郡作手村川尻城より、当日近城を本城として移り玉う。永正9年貞勝公、永正11年貞頼公誕生。当村八幡宮は御氏神なり。貞昌公川尻へ引取後、貞頼公城主となり、又其の子、貞友が守り、天正元年長篠合戦時には息女おやすを人質となす。 奥平監物貞昌公、作手川尻城より当地に移住。日近城を築城居城となす。現在は当院裏山、標高400メートル、本丸跡に秋葉山鎮守奥平家墓一基あり、まわりに砦屋敷跡3ヶ所馬はしり場跡等あり。当院の近くは全部武家屋敷、隠居所等ありしも今は山林、畑と化し、石垣のみが昔日の跡を止めている程度なり。 |
本丸奥の掘切
二の曲輪
虎口
帯曲輪
日近城は麓の広祥院の裏山にあたり、広祥院本堂の左側から登っていくことができます。途中、不動明王や奥平家墓所を通過し、更に道が分かれますが右の武家屋敷には行かずに左側へと登って行きます。二の曲輪、虎口などの案内板も出てきます。山頂が本曲輪で案内の立派な看板もありました。本曲輪の奥に掘切があり本曲輪から直接降りてしまいましたが、本曲輪の右側にある帯曲輪を通っていけば同じところに行かれます。更に奥にはきれいなトイレがありましたが多分別の管理施設だと思います。広祥院の奥平家臣の墓というのはこの日近城の本曲輪奥にあるとのことでしたが見つけることはできませんでした。 |
→広祥院
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