←前のページ トップページ↑ 次のページ→

神奈川県小田原市

小田原城

2014年03月09日

寛永11(1634)年には三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。元禄16(1703)年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失してしまうが天守閣は宝永3(1706)年に再建され、明治3(1870)年の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は昭和35年5月に市政20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
(看板資料より)

小田原城は室町時代に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を取り囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展しました。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名である大久保氏が城主となり江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されましたが稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わりました。次いで再び大久保氏が城主となり東海道をおさえ、箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至りました。明治3年には廃城の方針が出され、城内の主な建物は解体されました。城址は国の史跡に指定され「城址公園」として現在も様々な整備が続けられています。
(パンフレットより)


八幡山古郭・総構
小田原城は15世紀前半に大森氏により築城されたと考えられています。
文亀元(1501)年までに伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏から小田原城を奪い取り、二代目氏綱以降、小田原北条氏の本拠地となります。これ以降、五代氏直が豊臣秀吉との小田原合戦で開城するまで、小田原は関東支配の拠点として栄えました。
八幡山古郭は、八幡山丘陵の尾根上、標高69m付近の平坦部を中心とした戦国期小田原城の遺構が集中している場所で、当時の小田原城の主郭があったと推定されるなど、小田原城を考える上で重要な場所です。県立小田原高校校地内で行われた発掘調査では、城の虎口(出入口)部分を形作っている障子掘(堀の中に仕切りを伴う掘)や石組を持つ大規模な井戸跡が発見されました。現在でも所々に土塁や堀が残されています。
また小田原城の一番外側にある総構は、小田原北条氏が城と城下町を土塁や堀で囲んだ全長約9kmの防御施設です。これは天正18(1590)年の豊臣秀吉との合戦に備えて構築されたものであり、小田原城が戦国最大の城郭都市であったことを示す歴史的価値の高い文化遺産です。
丘陵部の総構は、自然地形を巧みに利用して築かれました。平成13(2001)年に発掘調査を行った伝肇寺西第T地点では、幅16.5m、深さ10.0mの堀が見つかっています。これは掘底に高さ1.7mの仕切りを伴う障子掘といわれる堀で、失われた土塁を含めた本来の規模は更に大規模であったと想定されます。堀の法面は、約60度の角度でほぼ直線的に立ち上がっており、この掘を乗り越えるのは困難であったことが分かります。
低地部の層構は、早川や山王川近くの湿地帯や海岸沿いの地形を巧みに利用して造られた土塁や堀で成り立っていました。早川口遺構や蓮上院などで土塁が国の史跡に指定され、残されています。そのほか現在では埋没してしまった堀や掘削された土塁でも、地割や水路などから当時の遺構の痕跡を見られる場所があります。
(看板資料より)

八幡山古郭・東曲輪

東曲輪は八幡山古郭の東寄りに位置します。平成17(2005)年に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫等と考えられる方形竪穴状遺構や掘立柱建物跡が発見されたことから、戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪のひとつであったと考えられます。また縄文時代の土器や石鏃が出土したほか、古墳時代の方形周溝墓も発見されたことなどから、八幡山一帯では古くから人々の生活が行われていたことが分かりました。
東曲輪からは、西方に天正18(1590)年の小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣をすえた石垣山一夜城を望むことができます。
更に東には、天守閣を中心に周囲に広がる小田原城下を望むことができるなど、小田原合戦の歴史の舞台や城と城下町の様子を通じて、戦国時代や江戸時代の小田原城の歴史を知る上で大変貴重な場所といえます。
この土地は市民の熱意や関係者の理解と協力のもとに小田原市が取得し、国の史跡として襲来にわたって保存されることとなりました。
(看板資料より)


小田原城八幡山古郭
県立小田原高等学校と周辺一帯は、戦国時代の北条氏小田原城の山の手側の中心部でした。その一角に北条氏と江戸時代大久保氏によって「八幡社」が祀られていたことから「八幡山古郭」と呼ばれています。いま天守閣がそびえている城址公園は江戸時代の姿で整備が進んでいますが、北条時代の本拠でもありました。戦国時代の小田原城は城址公園の本丸と、同じ尾根筋上にある八幡山に二つの主郭(本丸)を備えた独特の曲輪構成であったと考えられています。
神奈川県教育委員会は、同高等学校の校舎立て替えにあたって、平成13・14・17・20・21年度にわたり、敷地内の発掘調査を行いました。その結果、表面は削られていましたが、堀や井戸など掘り込みの深い戦国時代の遺構はそのまま残っていることが確認されました。このため、これらの遺構は埋め戻して地下に保存し、新校舎や施設は、それらを壊さないように建てられています。神奈川県教育委員会は、戦国時代の小田原城をしのび、今なお地表に残る大型土塁や堀跡を巡ることができるように学校及び地元市民の協力のもとで、この散策路を設置しました。
(看板資料より)


西曲輪西掘と三味線掘
発掘調査の結果、学校敷地の各所で戦国時代の遺構が検出されました。注目される成果としては「西曲輪西掘」「藤原平入掘」の大規模な「障子掘」の発見があげられます。「障子掘」とは、堀の中で敵兵の動きを封じるなどのため、掘底の各所に壁状に土を掘り残して畝状の仕切り壁(掘障子)を設けた堀で、戦国時代の北条氏が多用した堀の特徴です。両側の段状壁面は土砂の崩落を防ぐための処置で、遺構ではありません。
調査の範囲に限界があるため、堀の全容を直接視認するまでには至りませんでしたが、堀の上幅23〜24m、底の幅12.5m、深さ6.4〜7m、掘底の「掘障子」は上幅が約1m、下幅約4m、高さ1.4mと、いずれも戦国時代最大規模の遺構であることが確認されました。「西曲輪」は、「本曲輪(本丸)」の背後にあり、とりわけ防備を厳重にする必要があったものと推定されます。
現在の校庭北側には伝承「三味線掘」があります。西曲輪の出入口(虎口)と考えられ、3本の短い鍵折れ状の堀を組み合わせて、防御を厳重にしていたようです。その内「中掘」がほぼ江戸時代の絵図どおりの場所で確認され、その輪郭を杭と綱により表面表示してあります。
本曲輪高台の北西側では「本曲輪北堀」の一部が発見され、上幅が27〜28mと更に大規模でした。
本曲輪高台の裾からは、古墳時代前期の「壷形埴輪」の破片も出土しており、この地に古墳が存在したことが分かりました。
(看板資料より)


鍛冶曲輪

鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文2(1662)年小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。
(石碑記載文章より)


八幡山

この地には二つの八幡社があった。そのひとつは北条氏が鎌倉八幡宮から勧請したといわれ、江戸時代には「元宮」または「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので「新御宮」または「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。
(石碑記載文章より)


御前曲輪

この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空掘をもつ城郭遺構であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なおこの曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。
(石碑記載文章より)


毒榎平

この地の西端に残る巨大な空掘は、小田原城の三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は残されていない。
(石碑記載文章より)


小峯御鐘ノ台大掘切東掘
小峯御鐘ノ台大掘切は最も慰霊塔側にある東掘、現在道路となっている中掘、そしてその西側にある西掘の三本の掘切全体の名称です。
この堀切は本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の攻撃を防御するために北条時代末期に構築されたもので、小田原城の西側を防御する最も重要な場所であったと考えられます。
東掘は幅が約20〜30m、深さは土塁の頂上から約12mあり、堀の法面は50度という急な勾配で、空掘としては全国的にも最大規模のものといえます。
発掘調査によれば、堀には障子堀や土橋状の堀残し部分のほか、横矢折れといわれるクランク部分などの施設が設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏によって好んで用いられた戦国時代の城郭遺構の特色を良く表しています。
(看板資料より)

小峯の大掘切
小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも希に見る規模の大きな縄張りを持った城郭として知られている。その構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦禍から保護するとともに、城外に雄大な防御線を張ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代の氏康の永禄年間頃からつくり始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したものと思われる。
現在ここに見られる空掘遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な所と思われる。この空掘、土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。
(看板資料より)


三の丸外郭新堀土塁

小田原城を本拠とする小田原北条氏は、天正18(1590)年の豊臣秀吉との小田原合戦を迎えるまでに、堀と土塁で周囲9kmにわたる総構を構築しました。
それ以前には、総構の内側に「新堀」と呼ばれる外郭がありました。この場所は「新堀」と土塁の名残が色濃く残る場所になります。ここは小田原城の西端で一部が総構と重なる位置にあります。前方には豊臣秀吉の陣城である石垣山(一夜城)、細川忠興の陣場の富士山砦(坂橋城)を眺望することができます。
江戸時代になると、この場所は「御留山」となり、一般の人の立ち入りが禁止されました。明治維新を迎え、閑院宮家の所有を経て、昭和35(1960)年に(財)MRAハウスの所有地となり、平成18(2006)年までアジアセンターODAWARAとして活用されていました。そして平成19年に国指定史跡に指定され平20年に史跡用地として公有地化しました。
(看板資料より)

小田原城小峯曲輪北堀

報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なのでこれにちなんだものでしょう。
目の前の空掘は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空掘だけの戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。堀幅は神社境内の土塁から21m、深さは現状で5m余ですが、実際の堀底は更に2〜3mは深くなるでしょう。
また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切りが設けられていたと考えられています。
正面右手急斜面の高台は、本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪と本丸との間の本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向っていました。
(看板資料より)


三の丸土塁

この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。
この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政親子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。
(看板資料より)

幸田門跡記念碑



2012年01月22日

小田原城 三の丸土塁

この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。
この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、篭城戦を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。
(看板資料より)

幸田門跡の記念碑

小田原在陣中の信玄の動向は判然としないが、天正5(1577)年12月5日の年紀のある諏訪明神棟札によると、10月(9月の誤り)28日佐川(酒匂)に着陣した信玄は、2日後の翌月1日に小田原城蓮池に攻め込んで城下に放火、2日には同城を「巣城ばかりに蹴り詰め、悉く撃破」し、4日まで「佐川」に在陣して、5日大神(平塚市)に退いたという。
蓮池侵攻については、後に信玄自身深沢城矢文で「小田原に向けて相はたらくといえども、一向出合わざるの間、蓮池まで放火」と述べており、また信玄が4日に退去したことも同日付の氏康書状からも明らかである。
(小田原市史より)

 


小田原市立図書館に行って、武田信玄が小田原城を攻めた時のことについて聞いてみたところ、小田原市史を見せていただきました。また武田軍が攻め込んで放火したという蓮池の場所についても聞いてみたところ、現在の旭丘高校のあたりであるとのことでそこへの行き方や地図も頂くことができました。
実際に行ってみましたが、もちろん「蓮池」の看板があるわけでもなく、既に埋め立てられていて住宅地になっていました。

 



2002年09月23日


小田原城は室町時代に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を取り囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展しました。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名である大久保氏が城主となり江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されましたが稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わりました。次いで再び大久保氏が城主となり東海道をおさえ、箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至りました。明治3年には廃城の方針が出され、城内の主な建物は解体されました。城址は国の史跡に指定され「城址公園」として現在も様々な整備が続けられています。
(パンフレットより)

天守閣

寛永11(1634)年には三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。元禄16(1703)年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失してしまうが天守閣は宝永3(1706)年に再建され、明治3(1870)年の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は昭和35年5月に市政20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
(看板資料より)


銅門(あかがねもん)

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間を通してそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたものです。銅門の形式は、石垣による枡形、内仕切門、櫓門を組み合わせた枡形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
(看板資料より)


常盤木門(ときわぎもん)

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3(1870)年の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常葉木門は市政30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので昭和46(1971)年3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名づけられたといわれている。
(看板資料より)


本丸東掘跡

江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸掘とつながる水掘となっています。発掘調査によってこの本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることが分かりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は掘の名残と言えます。
小田原市教育委員会
(看板資料より)


おもしろ歴史ミュージアム 小田原城歴史見聞館

入場料300円、ここで天守閣への入場も可能なセット券を600円で購入しておくこともできます。内部はウェルカムゾーン、北条五代ゾーン、江戸時代ゾーン、小田原情報ゾーンに分かれていて小田原城の歴史を紹介しています。メインは北条五代ゾーンだと思いますが思ったより詳しい説明でしたが子供も楽しめるように工夫されていると思います。


小田原城小峯曲輪北掘

報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なのでこれにちなんだものでしょう。
目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形をとく留めている貴重な遺構です。掘幅は神社境内の土塁から21メートル、深さは現状で5メートル余りですが実際の掘底はさらに2〜3メートルは深くなるでしょう。また掘底には、掘障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。
正面右手急斜面の高台は本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪北掘は、今公園となっている屏風岩と本丸との間の本丸西掘と、神社裏門の出口の当たりで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向かっていました。
報徳二宮神社
(看板資料より)


謙信の小田原城包囲
1561年の正月、謙信は上杉憲政とともに厩橋で年を越し、その後関東の諸軍も含めて10万以上の大軍を率いて2月には鎌倉に入りました。その後、藤沢、平塚、大磯と進み3月13日には小田原城攻撃を開始。その後1ヶ月ほど包囲を続けましたが小田原城は落ちず、その後謙信は鎌倉に引き上げて関東管領に就任した。謙信はこの年の9月に信玄と第4回目の川中島の戦いも行っている。

信玄の小田原攻め
上杉謙信の小田原城攻めから8年後、1569年9〜10月に今度は武田信玄が小田原城を攻撃している。当時武田北条今川の同盟は破綻し、信玄は駿河の今川氏真を攻めていたが、北条氏との関係も悪化し駿河攻略に行き詰まっていた。このような状況を打開すべく信玄は佐久から碓井峠を越えて南下して武蔵鉢形城を包囲、さらに南下して郡内の小山田信茂と合流して滝山城を包囲。その後厚木、平塚を経て小田原に向かった。途中、酒匂等に放火して更に城下の蓮池にも放火して10月1日から小田原城攻撃を開始。しかし10月4日にはすぐに囲みを解いて同じ道を引き返した。帰路三増峠で待ち伏せしていた北条氏邦、北条氏照を10月6日に撃破して甲斐に帰っている。この小田原攻めがうまく陽動作戦になり、その後北条軍を相模に引き上げさせることに成功して駿府を再占領している。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→