鉢形城 |
2013年01月01日 |
虎口とは出入り口のことで、「小口」とも書きます。江戸時代塙保己一によって編纂された武家故実の書である「武家名目抄」では、「城郭陣容の尤も要会(要害)なる処を猛虎の歯牙にたとへて虎口というなり」と説明しています。 |
二の曲輪
二の曲輪の調査と堀の土塁 |
堀の土塁
鉢形城は、文明8(1476)年に長尾景春が築いたと言われています。背面は高い崖の下に荒川を臨み、前面には深沢川の深谷をひかえ、台地には本丸等の主要部を構え、深沢川の対岸には帯状の外曲輪があります。 |
井戸
鉢形城を訪れるのは3度目となりますが、今回初めて鉢形城の全貌を知ることになりました。荒川のすぐ近くの本丸周辺を探索している時にご老人が声を掛けてくれて鉢形城の場所はこの辺りかという質問に対して答えるべく近くの案内板を見ながら二の曲輪や三の曲輪などの存在を知ったのです。今まで私の認識していた鉢形城は本丸だけだったのです。 |
城山稲荷神社
越相同盟の成立を怒った武田信玄は、永禄12年9月、碓氷峠から西上野を経由して鉢形城領へ乱入。同9日に御嶽城(神川町)へ攻めかかった。北条氏邦は敵兵百人余を討ち取ってこれに応戦したが、翌10日に鉢形城の外曲輪を攻撃され、多数の死傷者を出して苦戦、越後の上杉謙信に援軍を求めている。続いて信玄は、武蔵・相模国内を蹂躙、10月1日には小田原城下に押し寄せて放火するが、攻略を難しとみて兵をひいた。 |
掘立建物跡
庭園と石積土塁 |
石積土塁
馬出
「馬出」とは、虎口(出入り口)を守ると共に、内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設です。鉢形城跡には馬出と考えられる遺構が多く残っています。 |
諏訪神社
諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老として出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉斎しました。
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2005年05月01日 |
荒川と鉢形城
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万uです。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。 |
鉢形城歴史館
去年の秋に鉢形城歴史館というものができたらしく、立ち寄ってみました。場所は鉢形城本丸から深沢川を越えた反対側にありました。なかなか立派な歴史館で入場料は200円。2階から入って1階に行くようになっていましたが2階の受付で、 |
深沢川
鉢形城の位置 |
深沢川
鉢形城の構造 |
2003年08月07日 |
鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。文明8(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉方の持城として栄えました。室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。 よみがえる鉢形城 |
鉢形城本丸跡
永禄12(1569)年9月、武田信玄は信州碓氷峠を越えて南下し、武蔵鉢形城を包囲。しかし落城させることなく、その後小仏峠を越えて武蔵に侵入した小山田信茂の軍勢と合流して滝山城を攻め、更に南下して小田原城を包囲し、帰路三増峠の合戦で北条軍を破って甲斐に帰ります。 |
史跡鉢形城跡と四十八釜
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