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埼玉県寄居町

鉢形

2013年01月01日

虎口とは出入り口のことで、「小口」とも書きます。江戸時代塙保己一によって編纂された武家故実の書である「武家名目抄」では、「城郭陣容の尤も要会(要害)なる処を猛虎の歯牙にたとへて虎口というなり」と説明しています。
三の曲輪では、伝秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る虎口の空間を全面発掘調査しました。階段の最上段には門が確認され、東側は壊されていましたが、礎石の一部と雨だれによってできた溝が確認されましたので、間口は1間半(約3m)と想定しました。階段の最下段の西側には石列が一列確認され、階段を隠す「蔀」の一部と思われます。
またこの空間は畑になっていましたが、発掘調査の結果、畑として耕されたために、上部が削られた石積土塁が検出されました。この土塁が北向きに折れる部分は、最上位面が広くなることから、ここに「櫓(矢倉)」が建てられていた可能性があります。この「櫓」と「蔀」に囲まれた空間は、城兵が一時待機する場所である「武者溜り」と思われます。
ここから土塁の間を通り諏訪神社(馬出)に向かう部分が虎口です。ここには、門のあった可能性が極めて高いのですが、発掘調査では確認できませんでした。柱穴が確認されなかったため礎石建ちの門であった可能性があると思われます。
「虎口」は、防御の要であり、出撃しやすくすることで、攻撃性を高めることができるため、城郭の発達段階を良く表す部分です。後北条氏系城郭の場合には、虎口の前に更に「角馬出」を設けることが特徴です。鉢形城内にはさまざまな形態の虎口があります。
(看板資料より)


二の曲輪

二の曲輪の調査と堀の土塁
二の曲輪は、平成9年度に発掘調査を実施しました。その結果、掘立柱建物跡・工房跡・土抗・溝などが検出されました。柱穴は位置の確認だけを行い、工房跡や土抗の一部、溝などを調査しました。
工房跡は3軒確認されましたが、埋まっていた土の中の炭や鉄滓(鉄のカス)、さらに鞴(ふいご)の羽口(鍛冶炉の通風口)が出土していることから、鍛冶工房と判断しました。
調査によって、現在城山稲荷神社の参道になっている土塁の他に、二の曲輪と三の曲輪を区画する堀に沿って、土塁の基礎の部分が確認されました。前者は地山を掘り残したもので、後者は盛土でつくられた土塁です。また、堀と土塁の間には、広く長い空間が確認されており、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われます。鉢形城には多くの土塁が良く残っていますが、中でも三の曲輪の土塁は、石積土塁として注目されます。
二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀の発掘調査は、平成9年度と11年度の2回にわたって実施しました。その結果、最大上幅約24m、深さ12mの大規模な堀であることが判明しました。また、堀の底には「畝」と呼ばれる高まりが発見されました。この「畝」は敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためのものであるという説と、堀底の水を一定に保つためのものという説があります。このような畝をもつ堀を「障子堀」といい、小田原城、岩槻城や深谷城などの後北条氏系城郭の特徴とされてきましたが、近年の発掘調査では後北条氏の時代より前から「障子堀」が用いられていたようです。
二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元しています。また、堀は遺構面の保護と安全対策から堀底を高くしています。
(看板資料より)

堀の土塁

鉢形城は、文明8(1476)年に長尾景春が築いたと言われています。背面は高い崖の下に荒川を臨み、前面には深沢川の深谷をひかえ、台地には本丸等の主要部を構え、深沢川の対岸には帯状の外曲輪があります。
天然の要害を巧みに利用した城であって、このような地形は高い山城と並んでよく城に利用されています。
いま、本丸、二の丸、三の丸、大手、搦手逸見曲輪等を区画するように土塁や堀が良く残っています。このため昭和7年国の史跡として指定を受けています。
その後、山内上杉氏の持城となり、永禄初(1558)年になって、当地一帯を治める藤田康邦は、小田原を本拠地として関東一円に進出してきた後北条家の氏邦を娘婿として迎えました。
北条氏邦は入城に当たり鉢形城の大改修を行って、関東屈指の平山城となったようです。
(看板資料より)

井戸

鉢形城を訪れるのは3度目となりますが、今回初めて鉢形城の全貌を知ることになりました。荒川のすぐ近くの本丸周辺を探索している時にご老人が声を掛けてくれて鉢形城の場所はこの辺りかという質問に対して答えるべく近くの案内板を見ながら二の曲輪や三の曲輪などの存在を知ったのです。今まで私の認識していた鉢形城は本丸だけだったのです。
そして今回は歩いて二の曲輪、三の曲輪、諏訪神社の方まで歩いてみました。二の曲輪、三の曲輪周辺は発掘調査の結果復元等整備されており、説明資料などもあって分かりやすかったです。
武田軍が攻めたと伝えられている外曲輪の方にも大きな堀などがあり規模の大きさに驚きました。


城山稲荷神社

越相同盟の成立を怒った武田信玄は、永禄12年9月、碓氷峠から西上野を経由して鉢形城領へ乱入。同9日に御嶽城(神川町)へ攻めかかった。北条氏邦は敵兵百人余を討ち取ってこれに応戦したが、翌10日に鉢形城の外曲輪を攻撃され、多数の死傷者を出して苦戦、越後の上杉謙信に援軍を求めている。続いて信玄は、武蔵・相模国内を蹂躙、10月1日には小田原城下に押し寄せて放火するが、攻略を難しとみて兵をひいた。
信玄に領国内の侵犯を許してしまった氏康・氏政父子と氏照、氏邦兄弟は、すぐさま帰国する信玄の軍勢を迫撃する。そして相模・甲斐国境の三増峠付近で挟み撃ちにしようとしたが、逆に返り討ちにあって大敗を喫した。
(寄居町教育委員会発行 鉢形城開城〜北条氏邦とその時代〜より)


掘立建物跡

庭園と石積土塁
この場所は、鉢形城跡の三の曲輪の中でも最も高いところで、平成10〜13年度に発掘調査しました。伝承では、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれています。
この曲輪は、門と土塀、土塁・堀によって区画され、その内部は大きく二つに分かれます。
そのひとつは庭園が発見された区域で、池を囲むように建物が配置されていました。発掘調査では掘立柱建物跡が数棟確認されましたが、礎石建物も建てられていたと思われます。天目や茶入などの茶道具や、後北条氏の中核的な支城でしか発見されていないカワラケなどが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったと思われます。
それに対し、庭園の区域よりも一段低い南側の空間では、囲炉裏の存在を示す自在鉤や鍋などの生活用品が出土しており、日常生活の空間と思われます。
この曲輪の土塁は、全長約100m、高さは約4.2mで、馬踏(上幅)約6m、敷(下幅)約12mの規模を持ち、鉢形城内でも最も良く残っていました。調査の結果、内側には河原石を3〜4段の階段状に積上げていることが確認され、雁木と呼ばれる階段もつくられていました。裏込石がなく、高さも一段が1m程度で、いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りしますが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見となりました。
整備事業では、鉢形城が廃城になる直前の時期を基準に、庭園と石積土塁、井戸・石組溝を復元し、2棟の掘立建物跡をそれぞれ四阿と丸太で表示しています。
(看板資料より)

石積土塁


馬出

「馬出」とは、虎口(出入り口)を守ると共に、内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設です。鉢形城跡には馬出と考えられる遺構が多く残っています。
この遺構は、伝承では「御金蔵」と呼ばれていましたが、その形状や調査の結果から「馬出」と判明したものです。西・南・東の三方を薬研堀で掘り切り、北側は荒川の崖になっています。堀の深さは西側で約7.4m、内部の広さは間口6.5m、奥行き12mで門の礎石や雨落ちの石列、石敷き排水溝などが確認されています。
石積土塁は、北・西・南側に築かれ、西側が最も長く、全長約17.5m、高さ約2.3m、馬踏(上幅)約2.3m、敷(下幅)約6.9mで、5段の石積みが施されています。北側は3段になっていますが、発掘調査によって、当初は5段の石積みであったことが判明しました。これほど遺構の状態が良好に残っているのは大変貴重で数少ない例です。
この馬出は、平面形が四角い形をしていることから「角馬出」と呼ばれ、後北条氏系城郭の特徴といわれています。
(看板資料より)


諏訪神社

諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老として出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉斎しました。
やがて天正18(1590)年鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
何度かの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落としている欅の大木は400年にわたる歴史の重みを静かに語りかけているようでもあります。
祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。
(看板資料より)

 



2005年05月01日

荒川と鉢形城

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万uです。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8(1476)年関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。また鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は6月14日に至り城兵の助命を条件に開城しました。開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
(看板資料より)

鉢形城歴史館

去年の秋に鉢形城歴史館というものができたらしく、立ち寄ってみました。場所は鉢形城本丸から深沢川を越えた反対側にありました。なかなか立派な歴史館で入場料は200円。2階から入って1階に行くようになっていましたが2階の受付で、
・鉢形城開城(北条氏邦とその時代)
・実説 鉢形城主 北条氏邦の生涯
という本を購入しました。
展示内容は城の構造の説明及び、豊臣秀吉による鉢形城攻略の際のことばかりで、武田信玄による鉢形城攻撃のことについては残念ながらあまりよく分かりませんでした。歴史館から遊歩道を歩いて行くと深沢川を横断して鉢形城の本丸に行くことができました。また今回は荒川を渡って城の反対側まで行ってみましたが、荒川に面する鉢形城本丸の断崖絶壁を確認することもできました。

深沢川

鉢形城の位置
寄居町は、埼玉県の中央部やや北寄りで、荒川が秩父山地から関東平野に流れ出るところに形成された扇状地形の頂点付近に位置しています。標高は最高点(三の曲輪)で122mです。荒川南岸の河岸段丘上に立地し、荒川の断崖と荒川に流れ込む深沢川の深谷に挟まれた天然の要害を巧みに利用して築城されています。城の東方には鎌倉街道の赤浜の渡しがあり、また秩父方面への街道である秩父往還の釜伏峠を下ると鉢形城の正面に当たるように、交通の要衝に占拠しています。城の三方を外秩父山地と上武山地の丘陵が取り囲み、城からの視界は良くありませんが、周囲の丘陵の主要な高台には物見台や狼煙台が置かれて、監視や防衛に当てられていました。
(看板資料より)

深沢川

鉢形城の構造
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、地形上、東南北側は堅固ですが、西側は開けており防衛上の弱点となっています。そのため、城主の居館や上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重にも深い彫切りを行い、二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成しました。さらにその外側には寺院を密集させて寺町とし防備を厚くしました。
大手の位置は、城の西側で城の拡張とともに移動しましたが、最終的には現在の諏訪神社の南側付近にあったと考えられています。各曲輪は、掘と土塁で囲まれるほか、主要な出入口には方形の馬出を備えており、曲輪ごとに部将が定められ管理をまかされていました。また、城の外側は周囲の小河川を上手く取り込み、水掘としていました。
深沢川の南側には、後に城を拡張して外曲輪を造成し、下級武士の住まいなどとしたほか、さらにその南側に城下町を形成し、城の守りを兼ねさせていました。
(看板資料より)



2003年08月07日

鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。文明8(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉方の持城として栄えました。室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。
城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村を搦手としています。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空掘が残っています。
天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守らに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、落城しました。
(看板資料より)

よみがえる鉢形城
鉢形城跡は、今から約400年前の戦国時代末に北条氏邦が北関東支配の拠点とした平山城で、寄居町のシンボルともいえる貴重な文化財です。昭和7年に城域約240,000uが国の史跡指定を受けています。
町はこの鉢形城跡を将来にわたって保存し、史跡公園として皆様に活用して頂くために、地元の方々のご協力により土地の公有化を進め、発掘調査を行い、その成果に基づいて城の復元整備を実施していきます。
発掘調査・整備工事中はご迷惑をおかけしますが、皆様のご協力をお願い申し上げます。
(看板資料より)

鉢形城本丸跡

永禄12(1569)年9月、武田信玄は信州碓氷峠を越えて南下し、武蔵鉢形城を包囲。しかし落城させることなく、その後小仏峠を越えて武蔵に侵入した小山田信茂の軍勢と合流して滝山城を攻め、更に南下して小田原城を包囲し、帰路三増峠の合戦で北条軍を破って甲斐に帰ります。


史跡鉢形城跡と四十八釜
ここは、国指定史跡鉢形城跡の搦手(からめて)である。鉢形城は荒川の断崖絶壁と急峻な深沢川の渓谷に囲まれた地形を利用した平山城で、戦国時代史を彩る屈指の名城である。築城時期は文明8(1476)年長尾景春説が有力である。その後関東管領山内上杉氏と経て永禄年間に北条氏邦が入城し、天正18(1590)年6月14日豊臣秀吉軍に開城された。
城の内掘として重要であった深沢川は今も尚両岸より断崖絶壁が迫り、灌木天を覆い渓谷の姿を止めている。激しい渓流は谷底の岩盤をうがち幾多の淵をつくり、いつのころからか淵を釜と呼んで「四十八釜」と称され、現在町指定の名勝である。代表的な「船釜」は水深3メートルを越え「艫ノ滝」が落ち込む幽谷美に満ちた淵である。尚、古くは当地域は「数釜ノ庄」と呼ばれ語源を深沢川の釜に求める伝承が今も残されている。
(看板資料より)

 

 
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