三増合戦場 |
|
三増合戦のあらまし 小田原城を囲んでいた信玄は永禄12年10月6日の朝に鎌倉鶴岡八幡への参詣と宣伝しながら小田原をたった。しかし平塚まで来た武田勢は進路を北に変え、甲州への道をとり、その夜は田村、大神の辺に宿営した。 落武者とモロコシ |
志田南遺跡出土遺物について |
この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同。畑の中にあった三ヶ所の塚の主たちの霊魂を弔うと共にこの山野で鮮血に塗れ、屍を晒して散った、四千有余人の武者たちの無念さを思い「三増合戦を偲ぶ会」として、ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。 永禄戦士供養塔 |
|
志田南遺跡出土遺物について
|
|
この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同。畑の中にあった三ヶ所の塚の主たちの霊魂を弔うと共にこの山野で鮮血に塗れ、屍を晒して散った、四千有余人の武者たちの無念さを思い「三増合戦を偲ぶ会」として、ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。 三増合戦場の碑のまん前に上記のような碑があり説明書きの看板がありました。平成11年と記載されていたので昔からあったようなのですが今回までまったく気がつきませんでした。この日首塚、胴塚を案内してくれた方もここに碑を移した有志の一人だったそうでその旨説明してくれました。 |
2003年05月24日 三増峠の合戦の具体的な経過について書かれているものは甲陽軍鑑しかないらしく、当然のことながら武田びいきに書かれているものと思われます(私は甲陽軍鑑全文を持っていないので書かれている内容がわかりません。そのうち買っておきたいと考えています)。私にとっての三増峠の合戦とは新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれているものが印象深いのですが、いろんな本に書かれていることや現地の看板に書かれていることとは必ずしも一致していないようです。 今日はPSアドバイザー氏にも同行してもらい、彼は三増合戦について何も知らなかったため、合戦の概要が書かれている説明が書いてある三増合戦の碑のところに寄りましたが、前回来たときよりよく整備されていました。
|
2001年08月18日 |
三増合戦のあらまし
|