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埼玉県寄居町

正龍寺

2005年05月01日

曹洞宗の寺院で、高根山藤源院といいます。正龍寺の創立は、花園城主藤田五郎政行で、高嶺山に筥根権現を祭り、一寺を創立す、といいます。能国の時代、文治4(1187)年城下に青龍が出現し、龍泉の湖をつくり、住んだといわれており、貞和4(1348)年臨済宗の僧實翁和尚が、山号を青龍寺と号しました。天文元(1532)年15代城主藤田康邦のとき、乾翁瑞元和尚が教化し、龍泉の湖の青龍を化龍して、「八代龍王」をこの寺に祀りました。青龍寺は、後に昌龍寺と改名され、天正19(1591)年徳川家康の時代に現在の寺号正龍寺になりました。
境内には、藤田康邦夫妻や鉢形城主北条氏邦夫妻の墓(いずれも県指定史跡)があり、また、県の天然記念物に指定されている玉垂の楓といわれている名木もあります。
(看板資料より)

藤田康邦墓 付夫人西福御前墓
北条氏邦墓 付夫人大福御前墓
藤田康邦は、正龍寺の西の山上に築いた花園城及び周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主の藤田氏15代当主と伝えられている。藤田氏は、武蔵七党と総称される中小規模の武士団のひとつである猪俣党の系譜を引いており、室町時代には関東管領を世襲した上杉氏の一族山内上杉家の重臣として活躍した。
康邦は、北条早雲を祖とする後北条氏の北関東支配が強まる中で、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、娘の大福御前を妻あわせた。康邦の没年は、天文24(1555)年、夫人の西福御前は永禄5(1562)年である。
北条氏邦は、藤田氏の名跡を継いで天神山城に入ったが、永禄年間には鉢形城を改修して居城とし、後北条氏の北関東経営の拠点とした。天正18(1590)年豊臣秀吉に降伏した後は、前田利家に預けられ能登国七尾で晩年を過した。没年は慶長2(1597)年と伝えられている。
戦国期の宝篋印塔としては大型で、笠に彫られた蕨手や竪連子の文様等に特徴があるこの4期の墓は、戦国末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を如実に物語っている。
(看板資料より)

北条氏邦同夫人墓

北条氏邦の名前は、武田信玄による小田原北条攻めの時に出てきます。信玄率いる武田本隊は碓氷峠を越えて鉢形城を囲みます。この時の鉢形城城主が北条氏邦です。その後、小仏峠を越えた小山田信茂の部隊と合流して北条氏照の守る滝山城を攻撃。小田原城攻撃の後に三増峠の合戦で北条方として戦ったのが鉢形城の北条氏邦と滝山城の北条氏照でした。

藤田康邦同夫人墓

 
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