松山城 |
2003年08月07日 |
この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。 永禄5(1562)年、11月武田信玄、義信父子は、北条氏康、氏政父子とともに上杉憲勝守る武蔵松山城を攻め、翌永禄6(1563)年2月4日に落城させた。 |
本丸跡
二の丸跡
春日丸跡
三の丸跡
新田次郎の小説武田信玄では、北条勢とともに武蔵松山城を囲んでいた武田軍の総大将である武田信廉は松山城付近にある百穴を見て、城に穴を掘って攻めることを思いついたことになっています。確かに松山城には下の写真のように穴があいているところもありました。吉見百穴も松山城のすぐ近くにありますので是非寄ってみてください。 |
松山城の横穴
吉見百穴
「百穴」の名が文献にみられるのは今から200年位前で江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。 |
地下軍需工場跡
構内の巨大な洞窟は、右の方500mから、左の方800mにわたり、山腹に掘られた30数ヶ所の一部であります。第二次世界大戦の末期昭和20年初頭前後から8月に至る間、地下軍需工場用に掘られました。この戦争の末期に各地の軍事施設は、アメリカ軍のB29爆撃機により大きな損害を受けました。
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