清泰寺 |
2005年12月10日 |
清泰寺は天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定有形文化財)。 |
市指定有形文化財(工芸品) 市指定有形文化財(歴史資料) |
県指定旧跡 見性院の墓
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われていました。そして二代将軍秀忠に男子幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸は後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、23万石の大名となり、幕政にも参画しています。 見性院は武田信玄の娘で、武将穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けました。慶長16(1611)年5月、二代将軍秀忠に第四子幸松丸が誕生(母はお静の方)すると、見性院はその養育にあたりました。幸松丸は七歳で高遠の城主保科正光の養子となり、のちに保科肥後守正之と称しました。家光の時代には山形からさらに会津23万石の藩主となり、兄家光を助け幕政に参画するようになりました。保科正之は会津松平家の祖となりました。元和8(1622)年5月9日、見性院は没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また、正之は養母の死をいたみ、寺境内に霊廟をつくりました。 |
見性院の墓
見性院の墓は本堂の向って左側の奥にありました。案内板の指示どおりに進めばたどり着けるのですが霊廟の門扉に閉ざされてしまい正面から見ることはできませんでした。というのも墓域の手前に柵があって中には入れないようになっていたのです。再び本堂の右側に行ってお寺の方にお話を聞かせていただきましたが、中には入れてもらえないとのことでありしかたなく少し横に行ってみると奥の墓石をみることができたので望遠レンズで撮影してみました。毎年一度6月のある日に縁者の方が集まるとのことであり、その日であれば一日中門が開いているので正面からみることができるとのことでした。それ以外にも見性院の位牌や三具足など、ゆかりある品についても一般公開はしていないとのことでした。会津藩により建てられたとはいえ、見性院さまは会津の人たちにとられてしまったようで少し寂しかったです。
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