最恩寺 |
2013年12月22日 |
最恩寺仏殿
当寺は、長久年間(西暦1040年)後朱雀天皇の御代の開創にて本町最古の建立と云われ天台宗に属していたが後に甲斐源氏武田の帰依を受け臨済宗に転宗し現在に至っております。この仏殿は中国宗時代の仏殿建築の手法をそのまま移して建てたもので典型的な唐様式で一名禅宗建築とも呼ばれ禅の思想をよくあらわしております。特徴としては、身舎背面柱から「もこし」前面柱に大虹梁を渡し大瓶束を立て、又軒には垂木を上下層とも用いていなくそのため大変に美しく見られる。
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2005年07月03日 |
最恩寺仏殿
当寺は、長久年間(西暦1040年)後朱雀天皇の御代の開創にて本町最古の建立と云われ天台宗に属していたが後に甲斐源氏武田の帰依を受け臨済宗に転宗し現在に至っております。この仏殿は中国宗時代の仏殿建築の手法をそのまま移して建てたもので典型的な唐様式で一名禅宗建築とも呼ばれ禅の思想をよくあらわしております。特徴としては、身舎背面柱から「もこし」前面柱に大虹梁を渡し大瓶束を立て、又軒には垂木を上下層とも用いていなくそのため大変に美しく見られる。 |
穴山勝千代の墓
最恩寺には穴山勝千代の墓がある。穴山勝千代は穴山信君(梅雪)の嫡子であり、信君が天正10年に本能寺の変の後に宇治で死去した後は、徳川家康によって武田氏の名跡を相続します。しかし天正15(1587)年に江尻城で死去してしまい、その後勝千代の母(見性院)が穴山氏の旧領地であったこの地に墓を作ったそうです。
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