滝山城 |
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天野坂から桝形虎口へ |
小宮曲輪(家臣屋敷)
「小宮曲輪」と称されてきているので氏照の家臣の中に西多摩地域出身の家臣(小宮氏)が活躍していたと思われる。小宮曲輪と三の丸との間には桝形虎口(出入口)があったが車道により消滅した。 |
コの字型土橋
堀を掘る際に、一部の土のままに残し通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。 |
中の丸南側の防御 |
中の丸
滝山城は相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主北条氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。 |
本丸
本丸南側桝形虎口
本丸の主たる出入口は二ヶ所ある。一ヶ所は中の丸から引き橋を渡って入る虎口。もう一ヶ所は南側に設けられている。 |
本丸への木橋
当時の木橋はもう少し下に架けられていた。おそらく中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる。人工的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。 |
馬出
虎口の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。
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滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。永正18(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元(1558)年前後に定久の養子として入場した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。 2003年08月07日
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