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東京都八王子市

滝山城


2014年01月26日

天野坂から桝形虎口へ
大手口と思われる天野坂からの掘底道は、城兵が効果的に攻撃できるよう工夫されている。小宮曲輪と三の丸の間には桝形虎口(出入口)が設けられていた。
攻めのぼる敵側にとっては大変な驚異にされされる場所で、侵入するのが難しかったと思われる。


小宮曲輪(家臣屋敷)

「小宮曲輪」と称されてきているので氏照の家臣の中に西多摩地域出身の家臣(小宮氏)が活躍していたと思われる。小宮曲輪と三の丸との間には桝形虎口(出入口)があったが車道により消滅した。


コの字型土橋

堀を掘る際に、一部の土のままに残し通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。
敵の直進を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。


中の丸南側の防御
中の丸の南側はニ方向から攻め寄せられ敵が合流できる場所だった。この場所には木橋の前面を守る防御施設が必要である。土塁の残り方から考えて、櫓門があったのではないかと推定される。


中の丸

滝山城は相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主北条氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。
北条氏照はこれまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久の養子として滝山城に入ったとされていた。しかし近年の研究では、氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子、大石綱周の養子になったと考えられている。
滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10(1567)年までには滝山城を居城としていたとみられる。
永禄12(1569)年10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき氏照は、古甲州道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に自ら書状で伝えている。
その後、天正10(1582)年頃から新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城へと移っていったのである。

本丸


本丸南側桝形虎口

本丸の主たる出入口は二ヶ所ある。一ヶ所は中の丸から引き橋を渡って入る虎口。もう一ヶ所は南側に設けられている。
桝形は敵の直進を防ぐための工夫である。もし敵がこの虎口に侵入すると、体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。現在でも桝形が大変よく残っている城郭遺構である。


本丸への木橋

当時の木橋はもう少し下に架けられていた。おそらく中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる。人工的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。
「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。


馬出

虎口の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。
二の丸の三ヶ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられている。

 


都立滝山公園案内図

滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。永正18(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元(1558)年前後に定久の養子として入場した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。
侵食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空掘と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心くばりは実に見事である。
大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭附近までであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われている。
永禄12(1569)年、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、2万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかしこの戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12〜15(1584〜87)年ころに、その居を移した。
(看板資料より)

2003年08月07日
鉢形城、武蔵松山城の後に訪れ、滝山城に着いたのは夕方になってしまいました。とりあえず本丸付近まで車で侵入することに成功しましたが見ることができたのはここだけでした。後日ゆっくり訪れたいと思います。
滝山城に行くには南側の国号411号線に入口があるのでそこからどんどん狭い道を登っていけば到着します。最初は北側の多摩川の方から入口を探しましたが車では登れなさそうでした。しかし北側の運動場付近から滝山城付近を見上げると断崖絶壁の険しさを見ることができます。

 

 
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