川中島古戦場 |
2016年04月29日 |
八幡社本殿
八幡社御由緒 |
首塚
この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4(1561)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。 |
一騎打ちの像(武田信玄)
この像はNHK大河ドラマ「天と地と」で川中島の戦いが放映されることを機に昭和44年11月に建てられたものである。 |
一騎打ちの像(上杉謙信)
2013年07月21日 |
八幡社御由緒 |
八幡社旧本殿
八幡社と旧本殿 |
八幡社本殿
一騎討ちの像
この像はNHK大河ドラマ「天と地と」で川中島の戦いが放映されることを機に昭和44年11月に建てられたものである。 |
三太刀七太刀之跡
永禄4(1561)年9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。 三太刀七太刀の碑 |
執念の石
信玄・謙信の一騎討ちの時、信玄のまわりには20名の勇士がいて防御したといわれ、一方謙信についてきたものは12騎であったといわれる。 |
甲越直戦地の碑と首塚
甲越直戦地の碑は、信州松本出身の陸軍少将福島安正の書で、有志の総意で建てられたもの。碑の高さは3メートル60、碑幅は1メートル12ある。 |
さかさ槐
永禄4年9月9日の夜、きつつき戦法を実戦に移そうと、武田信玄は八幡原に本陣を構えるべく、土塁をめぐらし、矢来を組んだ。この時土塁の地固めのために、自生の槐を杭として根を上にし逆さに打ち込んだ。この槐がそのまま根付き、芽を出して以来四百年を経て今のような巨木に生長したといわれる。
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2009年10月04日 |
川中島古戦場 八幡社
御祭神 譽田別尊 建御名方命 |
川中島古戦場八幡原 |
八幡原本陣再現 早朝に川中島古戦場の前を通過したので少し立ち寄ってみました。基本的に以前と変わった様子はありませんでした。大河ドラマ「風林火山」による影響かもしれませんが看板が少し変わっていました。 |
2003年08月15日 |
【「風林火山」の旗】
【「毘」「龍」の旗】 |
2003年05月25日
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武田信玄 |
上杉謙信 |
永禄4年の合戦 |
首塚
この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4(1561)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。 |
逆槐(さかさえんじゅ)
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4(1561)年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に生長したものと伝えられている。
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2000年07月20日 |
執念の石 |
三太刀七太刀之跡
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