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長野県長野市

川中島古戦場

2016年04月29日

八幡社本殿

八幡社御由緒
祭神の誉田別尊は第15代応神天皇の諱で神功皇后を母とし在位41年に亘り大陸の文化を積極的に取り入られ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。
当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この広原一帯を八幡原と名付けました。
川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされました。
現在は明治41年に建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
(看板資料より)


首塚

この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4(1561)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから北西へ180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。
(看板資料より)


一騎打ちの像(武田信玄)

この像はNHK大河ドラマ「天と地と」で川中島の戦いが放映されることを機に昭和44年11月に建てられたものである。
謙信と信玄の一騎討ちは実際にあったことなのか、史料によりさまざまな説がある。
武田方の『甲陽軍鑑』によれば「白巾で頭を包んだ武士が三太刀信玄に切りつけた」とあり、「後で聞けば其武者、輝虎なり」と書かれている。
『上杉年譜』では、「荒川伊豆守はせ来たり、信玄と見すまし三太刀まで討てども徹らず」とあり、一騎討ちを認めていない。
『北越軍記』では信玄の祈祷師の天海僧正の見聞談をのせている。天海は近くの山上より、この一騎討ちを実際に見たという。その夜、天海は陣屋に信玄を見舞い、大将同士の一騎討ちをほめると、信玄はにわかに機嫌を損ねて「あれは私と同じ格好をさせた影武者だ、一騎討ちの話など他言しないでくれ」と言ったとか、諸説粉々。
しかし大軍の主将・謙信が自ら刀を抜いて戦場を駆け巡ったということだけは確かで、このことは当時としては余程珍しいことであった。
(川中島古戦場 /龍虎より)

一騎打ちの像(上杉謙信)

 



2013年07月21日

八幡社御由緒
祭神の誉田別尊は第15代応神天皇の諱で神功皇后を母とし在位41年に亘り大陸の文化を積極的に取り入られ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。
当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この広原一帯を八幡原と名付けました。
川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされました。
現在は明治41年に建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
(看板資料より)

八幡社旧本殿

八幡社と旧本殿
武田信玄の本陣跡でもある八幡社は、山本勘助の勧請によるものとされている。
はじめこの地方の住民が、鎮守の祭神として誉田別尊御名方命としてお祭りしたと伝えられるが、戦い以来、武田信玄は信州豪族の武運長久の祈願神になった。
永禄4(1561)年9月10日の大激戦の後、武田信玄は敵味方を問わず死骸を手厚く葬り、負傷者の手当てをした後この社前に兵を集合させて勝どきをあげて海津城に引き上げたということが因となっているらしい。
明治10年8月17日、村社として登録される。
今日では、家内安全・商売繁盛・交通安全・入学就職の守護神として祈願する人がたくさんいる。
現在の八幡社は、長野県上田市塩田にある生島足島神社の旧社殿を移したもので新しいものだが、八幡社の前にあるサヤ堂のかかった小さい社殿が近世以来のものである。
(川中島古戦場 /龍虎より)

八幡社本殿


一騎討ちの像

この像はNHK大河ドラマ「天と地と」で川中島の戦いが放映されることを機に昭和44年11月に建てられたものである。
謙信と信玄の一騎討ちは実際にあったことなのか、史料によりさまざまな説がある。
武田方の『甲陽軍鑑』によれば「白巾で頭を包んだ武士が三太刀信玄に切りつけた」とあり、「後で聞けば其武者、輝虎なり」と書かれている。
『上杉年譜』では、「荒川伊豆守はせ来たり、信玄と見すまし三太刀まで討てども徹らず」とあり、一騎討ちを認めていない。
『北越軍記』では信玄の祈祷師の天海僧正の見聞談をのせている。天海は近くの山上より、この一騎討ちを実際に見たという。その夜、天海は陣屋に信玄を見舞い、大将同士の一騎討ちをほめると、信玄はにわかに機嫌を損ねて「あれは私と同じ格好をさせた影武者だ、一騎討ちの話など他言しないでくれ」と言ったとか、諸説粉々。
しかし大軍の主将・謙信が自ら刀を抜いて戦場を駆け巡ったということだけは確かで、このことは当時としては余程珍しいことであった。
(川中島古戦場 /龍虎より)


三太刀七太刀之跡

永禄4(1561)年9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
(看板資料より)

三太刀七太刀の碑
上杉謙信・武田信玄直戦の場所といい伝えられている石碑である。両雄の川中島での対決は、実に足掛け12年間5度にわたる。世に知られる「川中島の一騎討ち」とは、永禄4(1561)年9月10日の四度目の対戦である。この日、八幡社に本陣を置く信玄の所在を察知していた謙信は、激戦の最中、十数騎を従え、甲軍の陣地を突破し、信玄の身辺に殺到した。信玄の近習は槍ぶすまを作って、この強襲を阻止しようとしたが、謙信はただ一騎で側面より信玄に迫り、流星一閃。
謙信はニの太刀、三の太刀まで信玄めがけて斬り下げ、そのうちニ太刀が信玄の腕と肩に傷を負わせた。またこれを受け止めた軍配はささらのように裂け、刀の跡が七ヶ所あったと伝えられ、俗にこの地を三太刀七太刀と呼んでいる。
最近まで古戦場周辺の田んぼでは麦が作られていた。その麦が逆穂になることが多かったといわれる。ここは謙信の馬蹄に踏みにじられた場所であり、麦がその威勢を恐れてお辞儀をしているからであると、村の人たちはよく口にしていた。
(川中島古戦場 /龍虎より)


執念の石

信玄・謙信の一騎討ちの時、信玄のまわりには20名の勇士がいて防御したといわれ、一方謙信についてきたものは12騎であったといわれる。
この信玄側20名の中に原大隅という仲間頭がおり、とっさの護衛に信玄の脇にあった青貝の柄の槍を取って謙信の胸板を突こうとしたが突き外した。この槍が馬の三途(後脚の上部の骨)をしたたかうった。謙信の馬は驚き駆出して、これを限りに両雄の一騎討ちは幕切れとなったのである。
上杉側の12騎は一丸となって信玄を討とうとしたが、武田側はこれを防いだ。防戦する中で槍を振り上げながら原大隅は「いかにや味方の面々、ただ今妻女山より小山田・真田・小幡らがかけつけしぞ。軍は十分味方の勝利なり」と叫んだという。これで戦局は一変し、上杉方は劣勢においやられる。しかし謙信を取り逃がした原大隅は無念やる方なくかたわらにあった石を手持ちの槍で突き通したという。これがその執念の石だといわれている。
(川中島古戦場 /龍虎より)


甲越直戦地の碑と首塚

甲越直戦地の碑は、信州松本出身の陸軍少将福島安正の書で、有志の総意で建てられたもの。碑の高さは3メートル60、碑幅は1メートル12ある。
この碑の下にある塚は、合戦の後、討死した者たちを葬った首塚あるいは骨塚だといわれる。明治41年今の県道を作るため一部壊したら、鎖・帷子・刀などの破片が出てきた。
周辺にもこのような首塚が多数見うけられ、これらの首塚は松代海津城を守っていた高坂弾正昌信が、敵味方を問わずに死骸を集め、手厚く葬ったものであるといわれる。
昌信は甲州石和の生まれで、信玄に仕えて春日虎綱と名乗っていた。海津城築城と共に城代として駐在、上杉勢を一歩も寄せ付けなかった。後に信濃の名族高坂氏の名跡を嗣ぎ高坂昌信と改めた。
上杉謙信が塩に困った甲斐の国に越後から塩を送ったのは、永禄4年の戦いの際の戦死者を手厚く葬ったことへの感謝からだといわれている。
昌信の墓は松代町豊栄の明徳寺お境内にある。
(川中島古戦場 /龍虎より)


さかさ槐

永禄4年9月9日の夜、きつつき戦法を実戦に移そうと、武田信玄は八幡原に本陣を構えるべく、土塁をめぐらし、矢来を組んだ。この時土塁の地固めのために、自生の槐を杭として根を上にし逆さに打ち込んだ。この槐がそのまま根付き、芽を出して以来四百年を経て今のような巨木に生長したといわれる。
永禄4年8月、上杉謙信は越後春日山城を出陣し、信濃国川中島に向かった。武田軍のこもる海津城に対し、正面からの防御をさけ側面より城を脅かす戦術をとろうと妻女山に本陣を構えた。
この動きを察知した武田信玄は、一隊を妻女山に向かわせ、自らは川中島の八幡原に出陣する。妻女山を襲撃した別働隊に追い出された上杉勢を待ち受けて、たたこうという作戦を考えた。これが世にいうきつつき戦法である。
(川中島古戦場 /龍虎より)

 



2009年10月04日

川中島古戦場 八幡社

御祭神 譽田別尊 建御名方命
この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣構え、御加護を仰いだ八幡大神を奉斎する神社の神域となり、正面手前が旧社殿(鞘堂)、奥が現在の神殿であります。
また昔よりこの辺一帯をこの神の御名に因んで八幡原と称しております。
先ず御神前にお進みになりましたら、御祈願の上、二礼二拍手一拝の作法でお参り下さい。尚、この神社は、小島田町田中、野田地区の氏子の皆様により大切にお護りされておりますので、神域での飲食物、空缶、タバコ等の投げ捨ては、固く御遠慮下さいますようお願い申し上げます。
(看板資料より)

川中島古戦場八幡原
川中島合戦は今から400年前、天文22年より永禄7年に至る12年の永きに亘って行なはれたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を盡し、ここ八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。時に信玄41才、謙信32才であった。
この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし、現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南四粁の松城に、またョ山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約六粁の地点である。
(看板資料より)

八幡原本陣再現
ここ八幡原史跡公園は、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が篭る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。
(看板資料より)

早朝に川中島古戦場の前を通過したので少し立ち寄ってみました。基本的に以前と変わった様子はありませんでした。大河ドラマ「風林火山」による影響かもしれませんが看板が少し変わっていました。


2003年08月15日
大雨の天気予報にもかかわらず、川中島古戦場付近の史跡探索に来ました。朝4時ころには松代PAに着きましたが川中島古戦場の駐車にはまだ入れなかったので外に車を止めて見ることにしました。私は何度も来ていたのですが今回同行してくれたコック長殿は初めてだったので一通り見ることにしました。今回、「風林火山」旗と、「毘」「龍」の旗の看板に初めて気がついたので写真を撮ってきました。


【「風林火山」の旗】
武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧快川招喜(かいせんしょうき)の筆になるものである。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」
これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。
武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
(看板資料より)


【「毘」「龍」の旗】
上杉軍の軍旗で、「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもと上杉軍将兵は勇往邁進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時まっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。永禄4(1561)9月10日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。謙信自らの信仰心に発する「毘」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
(看板資料より)


2003年05月25日

 

武田信玄

上杉謙信

永禄4年の合戦
川中島古戦場、すなわちここは永禁4年の第4回川中島合戦のときに武田信玄が八幡原で本陣を構えた伝承のことである、啄木鳥戦法の信憑性を疑って、実は通説でいわれているような川中島の合戦は行われず、武田軍は自軍を二手に分けて一方は信玄、他方は長男である太郎義信を大将として戦ったのではないかとの説をどこかの本で読んだことがあります。海津城から妻女山に向けて別働隊を動かすことなどできず、俗にいわれている川中島の合戦の詳細な軍隊の動きの様子は甲陽軍鑑が勝手に作り出した机上のものであるとの説に、私も半分そうかもしれないと思ったりもしていたのですが、実際に八幡原に武田信玄の本陣跡があってそこには土塁もあったので、ひょっとしたら本当に甲陽軍鑑のような合戦が起きていたのかもしれないとふと感じたのでした。もちろん本陣跡も後でつくられたものかもしれませんが、しかし少なくともここで大規模な合戦が行われ、大勢の人が死んだことは間違いないのだと思いました。


 

首塚

この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4(1561)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。
(看板資料より)


逆槐(さかさえんじゅ)

山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4(1561)年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に生長したものと伝えられている。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡である。
(看板資料より)

 



2000年07月20日


執念の石
武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の原大隈が傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけて冗一槍にと突き出した。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隈は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
(看板資料より) 


三太刀七太刀之跡
謙信は乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
(看板資料より)

 

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