横山城 |
2005年09月24日 |
建武2(1335)年小笠原貞宗が守護として横山城に入るなど善光寺及び善光寺平の支配に重要な拠点となっていた。現在の城山公園の水内大社に本丸があった。 |
善光寺の東側に横山城跡があり、それは城山(じょうやま)公園の中にあるという情報を得て城山公園をめざしました。テニスコートがあるところの駐車場に車を止めてテニスコートの管理人の老人に横山城のことを聞いてみましたが良く分からないとのことでした。しかしそこから少し南に行った所に公民館があるのでそこで聞いてみれば分かるはずであるとのお話をお聞きしたので公民館に行ってみました。ちょうど公民館の前にいた人に聞いてみましたがやはり知らなかったようでした。この公民館も含めた城山公園一帯が横山城であろうとのことでしたのでそれであきらめて次の目的地に行こうとして外に出たところに横山城の案内の看板がありました。ちょうど下の写真のところです。そして善光寺とは反対側に向って坂を下っていったら上に記載した案内看板を発見したので水内大社を探すために再び坂を登ってみたら、先ほどの公民館の隣に上の2枚の写真のような神社があり、これが水内大社で、まさにここが横山城の本丸だったのでした。善光寺の横にある小さな神社程度のイメージでしたが、現地に行ってみると、全体的に善光寺より高台になっていて善光寺と反対側の東側は結構険しい崖になっていて当初のイメージとはずいぶん違っていました。 |
ときは戦国群雄割拠の世、甲斐の智将武田信玄の北信濃攻略の報に接した越後の勇将上杉謙信はこれを駆逐せんと軍を進め、天文24(1555)年4月ここ横山城を本営と定め、犀川南岸を本営とする武田信玄と対峙した。
戦機は熟して、7月19日興亡の一戦を覚悟した謙信は全軍に出撃を号令した。武田の本陣に殺到する上杉勢、これを迎え撃つ武田勢、両軍の喚声、軍馬のひびきは北信の天と地にこだました。「龍攘虎搏」の激闘は、流血犀川の水を紅に染め、屍は善光寺平の夏草をむし、川中島の合戦は壮絶に展開していったのである。
しかしながら猶雌雄を決するまでに至らず、永禄4(1561)年9月10日「妻女山は霧深く、千曲の川は波高し」と謡われ「鞭声粛々夜過河…」頼山陽の詩にも有名なる第4次の激突、謙信が単騎、八幡原に陣する信玄の本営に斬激を敢行し、信玄に三太刀七太刀の剣を浴びせたが敵槍に愛馬「放生」が狂奔し、千載の機を逸し、やむなく全軍をここ横山城に収拾遺恨の涙をのんだのであった。戦国武将が青雲の夢馳せたであろう。 |
横山城から望む旭山城と大峰城