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長野県長野市

旭山城

2016年05月01日

本郭

旭山城は善光寺の南西にある旭山の山頂にある。東側は山麓の直下を裾花川が南流し、南方約7qの地点には犀川が東流しており、難攻不落の天然の要害といえる。また眼下に善光寺平一帯を見下ろすことのできる戦略的拠点でもある。「善光寺ノ堂主栗田殿ハ旭城ニ御座候」(妙法寺記)とあり、善光寺の詰城でもあった。当城は標高783mという高所に構築された典型的な連郭式山城で、脚下に根小屋を見下ろす位置にあるが、極めて地勢が険しく防御に適し、大規模かつ複雑なうえ機能的な縄張りを持ち、大量の石垣・石塁で本郭群が構築されているなど、実戦的な防御のみを目的とした山城である。従って政治的・社会的情勢が変化すると放棄せざるをえないという性格をもっていたため、結果的には短命に終わった山城でもあった。
(日本城郭体系より)

本郭東側の堀切

標高800mに近い高所に築かれていた旭山城が実戦上必要不可欠であった時期は天文23(1554)年から永禄7(1564)年にかけて、川中島四郡支配をめぐって武田信玄と上杉謙信との対立が川中島一帯を最前線として展開されていた時期であった。
旭山城の史料上の初見も天文24年で、同年7月に上杉謙信が善光寺平に布陣して葛山城に拠ったのに対して、武田信玄は大塚の地に着陣して善光寺の堂主栗田氏の拠る旭山城に「人数三千、サゲ鉢ヲ射ル程ノ弓ヲ八百張、鉄砲ヲ三百挺」カラ御入レ候」(妙法寺記)とあるのをもって初見としている。その軍兵の数はともかく、旭山城には武田方の軍事拠点として歩兵隊・弓隊・鉄砲隊などの戦闘部隊が配置されていたことは事実と思われる。しかし戦闘は「興亡之一戦」の雌雄を決するに至らないまま両者とも長期にわたる対峙を続けることになり、今川義元の仲介で「万障に拠り旭之地ことごとく破却せしめ和与之儀をもって納馬し候」(歴代古案)とあるように、和議が成立し双方の軍勢とも撤兵することになり、旭山城はこの時破壊されたのである。
しかし弘治3(1557)年、武田勢の急襲で葛山城が落城すると、軍事拠点を喪失した上杉謙信は4月、急いで善光寺平に出陣し、「旭要害を再興し陣を居え候」(芳賀文書)と旭山城を再建して軍事拠点としている。その結果、上杉勢は5月には「香坂領内を放火」し「坂木岩鼻まで打散し」ており、武田方は柏鉢・東条・大岡の諸城を中心に更科・埴科両軍まで防御線を後退せざるをえなかったのである。
しかし永禄4(1561)年の第4回川中島合戦以降は再び旭山城は武田方によって占領され、同7年には武田勢はここを中心に善光寺平北端の髻山城付近にまで進出し、水内・高井両郡の郡境にまで後退した上杉勢は旭山城への偵察を命じざるをえないようになった。
このように天文〜永禄年間にかけて武田・上杉両軍は旭山城の争奪戦を繰り返しているが、旭山城の軍事的確保が南は更科・埴科両郡境、北は水内・高井両郡境に至る善光寺平一帯の確保と直接結びついていたのである。
その後、天正年間初頭の織田信長・武田勝頼・上杉景勝らの対立も再び善光寺平一帯を最前線として展開されたが、その時はこの旭山城や葛山城は攻防の焦点とはなっておらず、海津城や長沼城という平城の攻防がその戦闘の中心であった。天正年間に至ると、当地域の政治的・社会的状況が大きく変化し、旭山城の軍事的・戦略的意義は急速に低下していったのである。
(日本城郭体系より)


第二の郭群方面の堀切

当城の遺構は旭山山頂の城郭部分と山腹の根小屋部分とに存在する。山頂の郭は大堀切と竪堀とで区分された独立性と機能分化の著しい三つの郭群から成る連郭式山城である。
本郭群としては、約30m×約40mの方形単郭の周囲を石塁で囲まれた本郭と、その南側直下に腰郭が三段、北側直下に腰郭が一段配置されている。特に南側の三段にわたる腰郭は大手口から本郭に達する城山道の防備のためのものである。
第二の郭群は尾根伝いに東方に向かって伸びているが、巨石(物見岩といわれている)と二本の空堀とで郭が区分されている。東端の郭は断崖絶壁の上に位置しており、直下に根小屋を見下ろすと共に眼前に善光寺平一帯を一望することができ、川中島四郡の軍事情勢を支城と結んで把握することができる。いわば見張台や狼煙台などの機能をもつ郭群といえる。
(日本城郭体系より)

第二の郭群


第三の郭群方面からの本郭

第三の郭群は本郭の北西にあり、長く深い竪堀によって区分されている。搦手からの侵入に対して、空堀と土橋の前面に土塁を築いた馬出し虎口や空堀が平行せずに曲がり角に入る水撚の縄張り、更に桝形などの防御施設がみられる。
このように旭山城の郭は極めて独立性と機能性の高い郭群が有機的に結合している。防備・連絡・貯蔵などの機能を備えた軍事拠点そのものであったといえ、戦国大名の組織的な戦闘に即応した城郭であることがわかる。
(日本城郭体系より)

第三の郭群

 



2004年05月22日

旭山(古くは朝日山)は標高785メートル。その昔戦国時代には武田方の居城であったが、上杉方によっていったん破壊され弘治4(1558)年謙信公によって再興されたといわれる。本丸跡は東西約36メートル、南北約30メートルである。
(看板資料より)



旭山の成り立ち
これは流紋岩質の凝灰岩です。旭山は流紋岩質の溶岩、凝灰角礫岩や凝灰岩からできています。これらは裾花凝灰岩層とよばれ、今からおよそ1000万年前に現在の長野盆地西縁部で活動した海底火山の噴出物です。
(看板資料より)


展望台からの眺め

 
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