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長野県長野市

茶臼山


2015年06月13日

戦国時代、ここ信濃(長野県)の川中島の地をめぐり、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が幾度か激突した。その中で最も激しい戦いとなったのが、永禄4(1561)年の「川中島の戦い」である。
ここ茶臼山は、武田信玄が甲斐から出陣し、一時本陣を置いたと江戸時代後期に書かれた「甲越信戦録」に見える。
それによると、永禄4年8月14日、上杉謙信は1万3千の兵を率いて春日山城を出発し、武田方の居城である海津城(松代城)の南を通り妻女山へ陣を置いた。
上杉軍出発の知らせは直ちに甲斐の武田信玄の元へ伝えられ、8月18日急報を受けた信玄は1万の兵とともに躑躅ヶ崎館を出発。途中信濃の兵と合流し総勢1万8千となった。8月24日、川中島に到着した信玄はすぐに海津城へ入らず、ここ茶臼山に陣を置き雨宮の渡しを中心に軍を配備し、妻女山にいる謙信の動きをうかがった。
謙信が動かないのを見た信玄は、8月29日ここから海津城へ入り、9月10日あの両雄一騎打ちで有名な川中島の戦いが繰り広げられた。
(看板資料より)

旗塚

 



2004年05月22日

戦国時代、日本各地で争いが行われていた頃、ここ信濃の国(長野県)も甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信によって争われていました。その両雄が3万3千もの兵で激突した永禄4(1561)年の「川中島の合戦」の際に、武田信玄が甲斐から出陣して最初に本陣を置いたのがここ茶臼山です。
永禄4年の八月中旬、上杉謙信は1万3千の兵を引き連れ春日山城を出発し、海津城(松代城)の南を押し通り妻女山へ陣を置きました。上杉軍出陣の知らせはすぐに海津城からのろしによって甲斐の武田信玄の元へ伝えられました。
急報を受けた信玄は、今こそが上杉謙信を倒す絶好の機会だと、8月18日、1万の兵と共に躑躅ヶ崎の館を出発し、途中南信濃、東信濃の兵を合流させ1万8千となって川中島へ来ましたが、すぐには海津城へ入らずにここ茶臼山へ陣を置いたのです。
ここでしばらく妻女山にいる上杉謙信の動きをうかがっていましたが、謙信が動かないのを見た信玄は海津城へ入って兵を2万とし、9月10日のあの両雄一騎討ちで有名な川中島の激突となったのです。
(看板資料より)


茶臼山植物園の展望台からの眺め

茶臼山へ行くには、信里小学校を目指しましょう。篠ノ井から信里小学校へ向って通り過ぎたらすぐに右折してしばらく走ると到着します。携帯電話の鉄塔が建っていて付近は工事現場のようになっていてトラックなどがたくさん置いてありましたので車は途中で止めて歩いて行きました。

 

 
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