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長野県長野市

諸角豊後守の墓

2013年07月21日

諸角豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で武田家譜代の重臣として信虎・信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇は侍大将であった。
また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた守役で先見性のある智将でもあった。
永禄4(1561)年9月の第4回川中島の戦いにおいては本陣前線の右翼を担い八十一歳の高齢で出陣した。
「きつつき戦法」を見破られて武田軍の劣勢に兄信玄の危急を救わんと、副将信繁は上杉軍に切り込み壮烈な討死をした。諸角豊後守は信繁の討死の報せに激怒し、「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と、一途に主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入し奮戦のすえ壮烈な最期を遂げた。
ここを死に場所とした老将、諸角豊後守の無念さや心情に寄せた里人達の哀れみ深さと思いやりが今でも人々の心の中に生き続け、この地では「もろずみさん」の愛称でで親しまれており、塔之腰集落挙げて「諸角講」の皆さんにより、供養のため江戸時代の頃より毎年春・秋二回の祭典が行われている。
(看板資料より)

 



2003年08月15日

諸角豊後守の墓及び明治以降に建てられた記念碑である。諸角豊後守虎定は永禄4年の川中島合戦で81才で戦死したとのこと。一説には信玄の曽祖父信昌の末子(信縄、信恵らの弟)ともいわれている。合戦では信玄の弟典厩信繁が討死した後を追うように奮戦の末討死したという。
新田次郎氏の小説武田信玄では、信玄の長男義信とともに八幡原の鶴翼の陣の右翼を守っていたが、若い義信が上杉方の策略により重囲に陥ったところを、「義信様が討ち取られるようなことがあっては武田軍の敗北は必至である」と感じた諸角豊後守虎定が身代わりのようになって討死したように書かれていたし、浮世絵などに描かれた諸角虎定なども見ているので若き猛将といったイメージだったのですが、今回お墓を参拝させていただいて初めて信玄の曽祖父信昌の末子の説や81才で戦死したことを知りました。


慈照寺

 

 
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