勘助宮 |
2003年08月15日 |
勘助宮跡は、この地より北東約100メートルの位置にあった。勘助宮はもともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祭る諏訪社であった。遠い戦国の世、上杉・武田両軍の数度にわたる戦いがあり中でも永禄4(1561)年の川中島平を中心とする戦いは甲越両軍の死者六千余命を数える歴史に残る激戦であったと言われている。この戦いで武田の軍師山本勘助(又の名を道鬼斎と称した)の献策した「きつつき戦法」が失敗して武田軍は苦戦に陥り、責任を感じた勘助は奮戦してこの地で討死したと言われている。その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになった。欅の老木、鎧掛けの松、鞍掛けの松などと呼ばれた老樹がうっそうと繁り、明治末期に神社併合で今の東福寺神社に合祀されるまで北小森集落で祭りをしてきた。昭和初年、社木が老齢になり枯れ始めたので、地区の有志が樹木社殿を整理しその跡に数十本の桜を植えこの碑を建立した。碑文は文学博士南條文雄先生が川中島古戦場を訪問の際、勘助宮にも立ち寄り勘助を偲び書かれたもので、書は川中島合戦の戦略に興味をいだいた寺内元帥が陸軍大学校校長時代に教官・学生を引率して古戦場全域を視察したおり、勘助宮を訪ねた縁で後日揮毫していただいたものである。昭和22(1947)年、学制改革により東福寺小学校に中学校が新設され、狭くなった校庭を広げたため土地の代替に勘助宮跡地が提供され、桜は残らず切り倒されこの碑だけが残った。平成7(1995)年南長野運動公園建設のため、勘助宮跡に残った碑をここに移設した。 |
→山本勘助の墓(川中島)
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