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「勘蔵はこの地に死して名を残す」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
山本信供の墓
信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘介晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれ、天正3年5月、設楽原の戦いに20才の若さで討ち死にした。
信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、長篠城監視隊として、寒挟川沿いに備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦した。
しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前に石を建て弔ったという。後に一石五輪塔がまつられた。
(看板資料より)
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