山本勘助誕生地 |
2014年01月18日 |
「山本勘助誕生地」碑 「山本勘助誕生地」からの一考察 吉野文郷 |
長屋門
この長屋門は、山本勘助が誕生したといわれる父山本貞幸の本家であるここ吉野家で、江戸時代14代吉野郷三郎(有信)が陣屋代官をしていた頃に造られました。
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2005年07月03日 |
山本勘助晴幸は冨士郡大宮町山本なる吉野家に生る父を吉野貞幸とい母は大橋氏、其の先吉野冠者源重季に出ツ重季の子孫世世南朝に仕えて臣節を致し八世貞倫山本村に移り多由八幡宮を創建して其の祠戦となる男貞久専を軍学を修めて男子を挙げ長を貞宗といい次を貞幸という貞宗子なく貞幸の一子を養て祠となす貞幸亦文武を励み諸国を巡遊して参州牛窪に住し山本氏を稱し同地の人大橋入道の女を娶り後山本に住して一子を源助と名づく源助年12出て牛窪の人大林助左衛門の養子となり名を勘助と改め年二十大林氏を去り山本氏を冐し京都に出て専ら文武の両道を学び河内に入り楠公の遺蹟を探り軍学の応用築城の利害を研鑚して其奥義を極め牛窪に住して軍学兵法を講し其名四境に聞えしかは武田晴信幼時に主従の約を定む。天文13年晴幸甲府に入り公の帷幄い参し同15年3月奇計を以って村上義清を破り殊勲人を驚かし名聲内外に云々。永禄4年9月10日川中島戦役に従い奮闘数字其身遂に是役に斃る行年六十三法諡鉄巖道一禅定門子息某嗣き亦長篠に戦死し跡絶つ今や静岡県補助の下に、摂政宮殿下の御成婚を記念すべく大宮青年山本分團等建碑の企あり吉野宗家の主賓文を予に乞う予乃て事歴の梗概を叙し堅石に刻して其の産地に建つ。 以前、富士市の医王寺に行った時に富士宮市の山本というところに山本勘助が生まれたところと伝えられているところがあるという話を聞いていたので今回立ち寄ってみることにしました。カーナビの住所検索で山本というところを目的地にセットして現地に向いましたがどうしても場所が分からず、地元の人に聞いてみました。私が尋ねた老婆はちょうどその場所のことをよく知っていて丁寧に教えてくれました。その人も昔はそこでよく遊んだのだそうです。普通の人の家の敷地内?にあるらしいのですが石碑のところまで行ってみてもいいのか確認したら問題ないとのことでしたのでお邪魔させていただきました。現地には上の写真のように「山本勘助誕生地」と書かれた石碑があるだけでしたが、裏にまわってみると石碑に彫られた説明文章が書かれていました。
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→山本勘助晴幸生誕地(愛知県豊橋市)
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