←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県富士宮市

富士山本宮浅間大社

2004年07月10日

人皇第七代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が離散し国内が荒れ果てたので、第11代垂仁天皇の御代に至り、富士の神霊を山足(山麓)の地に鎮座した。第12代景行天皇の皇子日本武尊が東征お際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現社地の北方6キロ)に篤く大神を祭られた。その後、平城天皇の大同元(806)年坂上田村麿が勅命により神霊を山宮より大宮(現社地)に遷し奉った。以来実に1千百余年、全国1千3百余社に及ぶ浅間神社の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。
古来朝廷の尊崇極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。武家時代に入ってからは源頼朝をはじめ、北条義時、武田信玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。特に徳川家康は天下を平定した、奉賽のため、慶長9(1604)年に本殿以下の諸社殿を奉建し、更に富士山8合目以上を社地として寄進した。本殿は2層の楼閣をなし、浅間造りと称し重要文化財に指定されている。
(看板資料より)


楼門

鉾立石

その昔4月、11月の初申の大祭に山宮と本宮の間を神様がお渡りになりました。そのご神幸の際鉾を立てた石です。
(看板資料より)


武田信玄公御手植第二世信玄櫻

浅間大社と武田家
浅間大社ではボランティアの方が無料で説明をしてくれました。お話の内容は次の通りです。
武田信玄の時代に京都では比叡山の焼き討ちがあり宗教勢力には注意をはらっていたので、甲斐の国には身延山久遠寺があり僧兵が居たが武田信玄はこれを討つことはなかった。武田信玄が駿河に進出する際に大宮城が攻撃され3回目についに攻略された。大宮城はこの浅間大社のすぐ隣にあったそうです。当時大宮城は今川氏に属しており、大宮城主と浅間神社の大宮司を兼ねていた富士信忠が守っていましたが、その後富士氏は武田氏に従いました。信玄の死後、徳川家康が盛り返し信長とともに武田家を攻める時にこの大宮城を通って行って武田家を滅ぼした。また以前に徳川家康が単独で武田氏を攻めたが勝頼に敗れて逃げ込んだ人穴があるともいわれているそうです。


本殿

二重の楼閣造で非常に珍しく他にはないものである!との説明でしたが、確かに私も今まで多くの神社を見てきましたがこのように二階建てになっているものははじめて見ました。


国指定特別天然記念物
湧玉池

この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏13度、湧水量は1秒間に3.6キロリットル(約20石)年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。
つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→