源立寺 |
2014年01月18日 |
小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一した時に臣下の礼をとらなかったことを理由に天正18(1590)年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路をたどることになった。 |
北条氏政公首塚
天正18(1590)年7月豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の連合軍に攻められた小田原城は、世に言う「小田原評定」の後、ついに開城、城主氏政公は切腹。京都五条の橋にさらされた首級を、家老、小棹城主佐野新左衛門尉景政が当寺に埋葬し、菩提をとむらうため、五輪塔を建立。富士川の洪水で他は流失したが一輪のみ当時のまま残っている。
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2004年12月19日 小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一した時に臣下の礼をとらなかったことを理由に天正18(1590)年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路をたどることになった。 |
小田原城主(第4代)北条氏政公首塚
天正18(1590)年7月豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の連合軍に攻められた小田原城は、世に言う「小田原評定」の後、ついに開城、城主氏政公は切腹。京都五条の橋にさらされた首級を、家老、小棹城主佐野新左衛門尉景政が当寺に埋葬し、菩提をとむらうため、五輪塔を建立。富士川の洪水で他は流失したが一輪のみ当時のまま残っている。
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