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静岡県富士市

源立寺

2014年01月18日

小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一した時に臣下の礼をとらなかったことを理由に天正18(1590)年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路をたどることになった。
その当主(4代)氏政の墓が、本市場の南にあたる蓼原の源立寺にある。山門の扉には菊の紋が輝いている。その理由は、京都の泉涌寺(皇室の菩提寺)の開山月輪大師が、鎌倉幕府の北条泰時に招かれて下向した時、この地にあった小庵に一時とどまったことに始まると伝える。
さて氏政の墓は、本堂裏手の墓地中央にある。高さ62センチほどの小さなもので宝篋印塔の一部だけが残っているので、一目して奇妙な形に見えるが、これは富士川が何度も氾濫して流されたためという。
寺伝によれば、北条氏政は7月に切腹し、その首は京都に送られて晒し首にされたものを、家臣の佐野新左衛門がひそかに首を持ち下った。ところが当地まで来て、富士川の洪水のために足止めされてしまった。厚いさなかであったので首の腐敗も早く、仕方なくこの寺に葬り、新左衛門はここに土着して主君の菩提をとむらうことになったという。そのため氏政の墓は、一名を首塚と称している。
やがて彼の子孫は、当地の新田開発に力を貸して、加島五千石といわれる地区の発展に寄与したという。
(看板資料より)


北条氏政公首塚

天正18(1590)年7月豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の連合軍に攻められた小田原城は、世に言う「小田原評定」の後、ついに開城、城主氏政公は切腹。京都五条の橋にさらされた首級を、家老、小棹城主佐野新左衛門尉景政が当寺に埋葬し、菩提をとむらうため、五輪塔を建立。富士川の洪水で他は流失したが一輪のみ当時のまま残っている。
(石碑より)

 



2004年12月19日

小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一した時に臣下の礼をとらなかったことを理由に天正18(1590)年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路をたどることになった。
その当主(4代)氏政の墓が、本市場の南にあたる蓼原の源立寺にある。山門の扉には菊の紋が輝いている。その理由は、京都の泉涌寺(皇室の菩提寺)の開山月輪大師が、鎌倉幕府の北条泰時に招かれて下向した時、この地にあった小庵に一時とどまったことに始まると伝える。
さて氏政の墓は、本堂裏手の墓地中央にある。高さ62センチほどの小さなもので宝篋印塔の一部だけが残っているので、一目して奇妙な形に見えるが、これは富士川が何度も氾濫して流されたためという。
寺伝によれば、北条氏政は7月に切腹し、その首は京都に送られて晒し首にされたものを、家臣の佐野新左衛門がひそかに首を持ち下った。ところが当地まで来て、富士川の洪水のために足止めされてしまった。厚いさなかであったので首の腐敗も早く、仕方なくこの寺に葬り、新左衛門はここに土着して主君の菩提をとむらうことになったという。そのため氏政の墓は、一名を首塚と称している。
やがて彼の子孫は、当地の新田開発に力を貸して、加島五千石といわれる地区の発展に寄与したという。
(看板資料より)


小田原城主(第4代)北条氏政公首塚

天正18(1590)年7月豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の連合軍に攻められた小田原城は、世に言う「小田原評定」の後、ついに開城、城主氏政公は切腹。京都五条の橋にさらされた首級を、家老、小棹城主佐野新左衛門尉景政が当寺に埋葬し、菩提をとむらうため、五輪塔を建立。富士川の洪水で他は流失したが一輪のみ当時のまま残っている。
(石碑より)

 

 
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