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長野県長野市

山本勘助の墓

2013年07月21日

山本勘助(道鬼)墓
山本勘助は、三河国(愛知県)の出身。26歳より諸国を巡り修業し、天文・兵法・剣術・築城術等武芸百般を体得。44歳にして武田信玄の軍師となり数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築の手がけた。
永禄4(1561)年9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後討死にした。
勘助の墓は、初めこの南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、1739(元文4)年松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂境内に遺骨と共に移し、墓碑を建立した。1809(文化6)年には孫の鎌原重賢が末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となっている。
(看板資料より)

勘助の墓は八幡原の東、松代方面より国道403号線を柴の信号で左折して千曲川にかかる更埴橋の上流200メートルの土手下にある。ここはもと柴阿弥陀堂の境内であったが、昭和の初期頃千曲川堤防の改修で河川敷となり、堂は堤内地に移転し勘助の墓だけがそのまま残ったものである。
勘助の死骸を埋めた所は、水沢の千曲川ほとりで、そこに墓を作ったが、その後の洪水で川筋が変わり、昔の墓は川の中になってしまったという。寛永(1624〜1644)の頃千曲川の右岸、柴村の南方、松原に移したが、元文4(1739)年、松代藩家老鎌原重栄が、今の地に移し碑を建てたもので、正面に「山本道鬼居士」と刻まれている。またこの碑の左右面背面にかけて、勘助の経歴も刻まれている。
(激闘!川中島合戦をたどる 岡澤由往著)

 



2005年09月24日

山本勘助(道鬼)の墓
山本勘助は三河の国(愛知県)の出身で初めは今川義元に仕えていましたが、のちに武田信玄の家臣となりました。諸国を流浪して各国の事情に精通し、さらに天文、兵法、槍術など武芸百般を体得した信玄の参謀で、諸国の情報を素早く入手し、数々の策略を立てたといわれています。また、信玄が上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築も手がけました。
永禄4(1561)年9月の川中島の合戦では、必勝を信じて「きつつきの戦法」を信玄に勧めたが、それを上杉謙信に見破られたために武田軍は苦戦に陥りました。勘助はその責任を感じ、敵陣へ駆け込み奮戦したのですが力尽きて討死してしまいました。
この墓は、昔はこの南方の高畑付近にありましたが、元文4(1739)年に、松代藩家老鎌原重栄が今の地に移して碑を建てたものです。
(看板資料より)

真田信之が隠居していたといわれる大鋒寺を探しているときに見覚えのある場所に来たのですが、なんと山本勘助の墓の近くでした。以前来たときもちょうど台風が接近していたときでした。今回も台風の影響は全くないわけではありませんでしたが雨は降ることなく地面はぬかるんでおらず別の方角から近づいたため本来の墓の正面を確認することができました。以前来たときにも看板はありましたがその反対側まで確認することなく帰ってしまっていたのです。もちろん当時の看板と色も違うので以前来たときに反対側に説明文章が書いてあったのかどうかは今となっては確認することはできませんが、今回は足場が良かったので色々な場所に足を踏み入れることができました。場所はちょうど千曲川を挟んで川中島古戦場の反対側になります。



2003年08月15日

千曲川沿いの土手の道路沿いから山本勘助の墓に入れますが、その千曲川沿いの道路は進入禁止になっていました。土手からは砂利道を下り、更に墓までは土になっていて、昨日からの雨でぬかるんでいて足場が悪くなっていました。


医王寺(静岡県富士市:山本勘助の墓)
長谷寺(愛知県豊川市:山本勘助の墓)
宗泉院(山梨県韮崎市:山本勘助の供養塔)
山本勘助誕生地
胴合橋(川中島)
勘助宮(川中島)
山本勘助屋敷墓
傳山本勘蔵信供之墓
西明寺

 

 
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