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長野県長野市

典厩寺

2013年07月21日

山門

当寺は明応9(1500)年頃創られ、最初は瑠璃光山鶴巣寺と称していました。
永禄4(1561)年9月10日、武田信玄・上杉謙信の一騎打ちで知られる第4回川中島合戦の際に、信玄の弟・武田典厩信繁は武田軍の副将としてこの寺に典厩本陣を張りました。そして激戦の中、信繁は兄信玄を守り華々しく討死しています。享年37歳でした。その遺骸を鶴巣寺境内に埋葬、典厩塚と呼ばれてきました。永禄4年の大合戦から61年後の元和8(1622)年、真田信之が上田から松代城に移封され松代真田藩の祖となります。かつて武田家重臣だった真田家は、大恩ある典厩信繁の菩提を弔うため、藩主真田信之の命により寺の名前を松操山典厩寺と改め、大法要を営み、境内に自然石の碑(墓)を建立しました。
(パンフレット資料より)

山門は三代真田幸道の霊屋の門を移したものと伝えられています。
(パンフレット資料より)


閻魔堂

万延元(1860)年この閻魔堂は松代藩8代藩主真田幸貫公の発願によって川中島合戦戦死者六千余名追善供養のために建立されました。そして日本一大きい朱塗閻魔大王像を祀り、天井には三十三身観音菩薩、正面の壁に四天王が描かれています。
その右から二番目の北方多聞天王が別名毘沙門天です。
上杉謙信は武将の守り仏様である毘沙門天の「毘」を旗印にしたものです。
右壁には霧の川中島合戦を描いたものです。
左側額縁は、十王経を絵に表したものです。
(看板資料より)

閻魔堂の屋根瓦には、甲斐武田家の紋所武田菱(割菱)と信繁に許された花菱(唐花菱)の紋が並んで刻まれています。
(パンフレット資料より)


本堂

本堂入口の両脇には、甲斐武田の旌旗「風林火山」、越後上杉謙信の大牙旗「毘」と大纏の「龍」が書かれた大きな旗が掛けられています。
(パンフレット資料より)


武田典厩信繁公の墓

武田典厩信繁は大永5(1525)年、父武田信虎と母大井夫人の間に次男として生まれた。
信虎は文武両道に優れる信繁に家督を譲ろうと考えていたが、天文10(1541)年、信玄により駿河に追放されると、信繁は武田家副将として、信玄の領国支配、軍事行動を補佐した。信繁は嫡男信豊に家臣団の倫理規定ともいえる99ヶ条からなる「武田信繁家訓」を与えている。これは江戸時代に武士の心構えとして広く読まれていた。
信繁は永禄4(1561)年9月10日の第4回川中島合戦で、信玄本陣を守り壮絶な死を遂げた。その遺骸は鶴巣寺に埋葬され、典厩塚と呼ばれた。享年37歳。その死は「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵の上杉謙信からも、文武両道に優れた名将としてその死を惜しまれたという。
その後、鶴巣寺は真田信之の命により典厩寺と改められた。信繁公の墓碑には「松操院殿鶴山巣月大居士」と刻まれている。
(看板資料より)

パンフレットによると、墓碑の脇にある五輪供養塔は右側が武田典厩信繁の塔。左側が真田信繁(幸村)の塔とのこと。


典厩隊は千曲川湖畔まで進退すること三度、見方は次々と討死していく。朝霧の晴れゆくかなた、八幡原を見れば兄信玄の旗本隊も越軍に押され苦戦の最中。甲斐源氏武田の棟梁、兄のことが我が身よりも案じられ、日頃他の兄弟よりも自分に目をかけ、可愛がってくれた兄信玄への慕情が激しい戦いの中にも頭をかすめる。弟の身を案じて兄にもしものことがあったら、それこそ武田の家運も尽きるものと典厩は信玄のもとへ急使を走らせ、「私を助けよと思い召さるな。私が敵を防いでいる間に勝利の戦術を」と伝えさせ、そして家来の春日源之丞を馬前に呼び寄せ、紺地に信玄直筆の法華経陀羅尼品の経文を金粉で書いた母衣(鎧の背につけて飾りとし、時には流れ矢を防いだ具)と乱れ髪の一握りを切って渡し、「われ討死の後は、わが子信豊に与えよ」と遺言し、群がる越軍の中に駆け入って、さんざんに斬りまくったが、多勢に無勢力尽きて、越後の猛将宇佐美駿河守の繰り出す槍に脇腹を突かれ討死した。時に信繁37歳であった。
典厩信繁の死骸は千曲川に転げ落ち、浮き沈みして流れていくのを「よき御大将の御首を」と、宇佐美の家臣梅津宗三が川に飛び込んで死骸を抱え首を取ろうとした。そうはさせじと、これまた信繁の家来らが千曲川に飛び込んで相戦い、とうとう梅津を討ち取り、死骸を川辺に引き上げ、討死した場所で信繁の死骸を荼毘に付し、手厚く葬った。そこが信繁の墳墓のある場所という。
(激闘!川中島合戦をたどる 岡澤由往著より)


明治39年、伊東祐亨元帥、東郷平八郎元帥、上村彦之丞元帥がそれぞれ典厩信繁の尊霊を参詣された記念碑です。
(看板資料より)


懐古の碑

伊藤祐亨元帥による命名書、明治39(1906)年川中島合戦両軍戦死者の霊を慰める甲越弔魂碑。武田家・上杉家 両家の石を配置して供養されました。
(看板資料より)

伊東祐亨元帥揮毫による碑が、明治39(1906)年に建てられました。両軍の戦死者の霊を慰める甲越弔魂碑です。右側に上杉謙信の力試しの石(春日山城石)、左側に武田信玄の躑躅ヶ崎館の愛石(甲斐)が置かれています。この時、東郷平八郎元帥、上村彦之丞元帥も同行して典厩公の尊霊に参詣し、宝物をご台覧されました。
(パンフレット資料より)


首清めの井戸

討死した典厩信繁の首を敵から奪い返し、井戸で丁寧に清めた後、葬り、塚を築いたといいます。
(パンフレット資料より)

 



2003年08月15日

典厩寺由来
当寺はもともと鶴巣寺と号し永禄4年9月10日川中島合戦の際、信玄の実弟典厩信繁の陣営地にして奮戦の末、この付近ではなばなしく討死したので遺骸を当寺の境内に埋めて典厩塚と云う。
元和8年(合戦から60年後)に武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め川中島戦死者群霊を弔い永遠に史跡として記念することになった。現今川中島平における直戦地古戦場と平和静寂な観光の地にして古を偲ぶ歴史的研究者の最も良き名勝地なり。
(典厩寺パンフレットより)


武田典厩信繁公の墳墓
永禄4(1561)年川中島合戦の際この寺は信繁公の本陣となり奮戦の末37歳で討死した。
(看板資料より)
宝永の古書に「信繁公の御葬地は其の頃御石碑無之此所なりとて古き松あり」と記してあり。昔は松の外に何もなく村人は典厩塚と云って来たが、元和年間に松代藩真田信之の許しにより鎌原家が長さ6尺余の野石を以って碑を建立せり。
(典厩寺パンフレットより)


甲越弔魂碑(明治39年)
明治39年9月10日に川中島合戦350年祭を行い閑雅清浄の庭園に元帥・伊東祐亨の筆なる「懐古」の一大記念碑を建て右に謙信の勇士力試しの遺石と左に信玄愛賞の庭石を配列せり当寺の庭園は元伊東元帥により懐古園と銘名され玄関先には皇太子様(大正8年)宝物御大覧記念の松が栄え、各宮家の御来遊記念樹、梅、桜等多く春になれば花咲き匂いて情趣深し。
(典厩寺パンフレットより)


信玄の愛石


謙信の力石


座禅石


典厩信繁公の首きよめの井戸


川中島合戦記念館(昭和41年)
昭和39年秋川中島合戦400年記念祭を典厩寺にて行い其の記念事業として古くから寺宝として伝わってきた宝物60点を永遠保存するため記念館を建設し昭和41年4月完成式を行い広く観光者のため毎日宝物展覧す。
(典厩寺パンフレットより)


閻魔堂(万延元年)
境内の閻魔堂は川中島合戦300年の記念殿として建立し万延元年に300年祭の大法要を行い川中島群霊の冥福を増進せしめたり。
堂内には2丈余の朱塗閻魔大王の像を安置し後壁に四天王を、天井に三十三身の像を画げり尚此の堂には弘法大師作の薬師如来(鶴巣寺の頃の本尊)を祀り毎年1月と8月の16日を縁日として盛大なり。
(典厩寺パンフレットより)
★日本一大きな閻魔様とのこと。


典厩寺は信玄の弟である典厩信繁が祭られているお寺です。彼は永禄4年の川中島合戦で八幡原にて鶴翼の陣をはった武田本隊の最も激戦の場所に布陣して兄信玄の本陣を守り抜き討死してしまいます。兄信玄に協力し、理想的な弟、そして理想的な武将として、真田昌幸は自分の次男である真田幸村に信繁と名付けています。
父信虎は長男晴信を疎み、弟信繁に家督を譲ろうとしたといわれています。普通であればそういう状態の兄弟関係はうまくいかないケースが多いのですが、晴信の代になってからも、弟・信繁は兄晴信を慕い、また兄・晴信も弟信繁を信頼していたということを考えると、真田昌幸だけではなくきっとすべての家臣の信望を集めていたはずです。


武田信繁首塚
釈尊寺

 

 
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