典厩寺 |
2013年07月21日 |
山門
当寺は明応9(1500)年頃創られ、最初は瑠璃光山鶴巣寺と称していました。 山門は三代真田幸道の霊屋の門を移したものと伝えられています。 |
閻魔堂
万延元(1860)年この閻魔堂は松代藩8代藩主真田幸貫公の発願によって川中島合戦戦死者六千余名追善供養のために建立されました。そして日本一大きい朱塗閻魔大王像を祀り、天井には三十三身観音菩薩、正面の壁に四天王が描かれています。 |
本堂
本堂入口の両脇には、甲斐武田の旌旗「風林火山」、越後上杉謙信の大牙旗「毘」と大纏の「龍」が書かれた大きな旗が掛けられています。 |
武田典厩信繁公の墓
武田典厩信繁は大永5(1525)年、父武田信虎と母大井夫人の間に次男として生まれた。 典厩隊は千曲川湖畔まで進退すること三度、見方は次々と討死していく。朝霧の晴れゆくかなた、八幡原を見れば兄信玄の旗本隊も越軍に押され苦戦の最中。甲斐源氏武田の棟梁、兄のことが我が身よりも案じられ、日頃他の兄弟よりも自分に目をかけ、可愛がってくれた兄信玄への慕情が激しい戦いの中にも頭をかすめる。弟の身を案じて兄にもしものことがあったら、それこそ武田の家運も尽きるものと典厩は信玄のもとへ急使を走らせ、「私を助けよと思い召さるな。私が敵を防いでいる間に勝利の戦術を」と伝えさせ、そして家来の春日源之丞を馬前に呼び寄せ、紺地に信玄直筆の法華経陀羅尼品の経文を金粉で書いた母衣(鎧の背につけて飾りとし、時には流れ矢を防いだ具)と乱れ髪の一握りを切って渡し、「われ討死の後は、わが子信豊に与えよ」と遺言し、群がる越軍の中に駆け入って、さんざんに斬りまくったが、多勢に無勢力尽きて、越後の猛将宇佐美駿河守の繰り出す槍に脇腹を突かれ討死した。時に信繁37歳であった。 |
明治39年、伊東祐亨元帥、東郷平八郎元帥、上村彦之丞元帥がそれぞれ典厩信繁の尊霊を参詣された記念碑です。 |
懐古の碑
伊藤祐亨元帥による命名書、明治39(1906)年川中島合戦両軍戦死者の霊を慰める甲越弔魂碑。武田家・上杉家 両家の石を配置して供養されました。 |
首清めの井戸
討死した典厩信繁の首を敵から奪い返し、井戸で丁寧に清めた後、葬り、塚を築いたといいます。
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2003年08月15日 |
典厩寺由来 |
武田典厩信繁公の墳墓 |
甲越弔魂碑(明治39年) |
信玄の愛石
謙信の力石
座禅石
典厩信繁公の首きよめの井戸
川中島合戦記念館(昭和41年) |
閻魔堂(万延元年) 典厩寺は信玄の弟である典厩信繁が祭られているお寺です。彼は永禄4年の川中島合戦で八幡原にて鶴翼の陣をはった武田本隊の最も激戦の場所に布陣して兄信玄の本陣を守り抜き討死してしまいます。兄信玄に協力し、理想的な弟、そして理想的な武将として、真田昌幸は自分の次男である真田幸村に信繁と名付けています。 |