馬場美濃守信春屋敷跡 |
2007年10月28日 |
甲信国境の豪族教来石氏(武川衆)の出身で、天文15(1546)年に信玄に抜擢され、50騎を預けられて、馬場氏の名跡を継いだという。信玄の信濃経略で活躍し、天文19(1550)年に小笠原長時が没落すると、深志城(現在の国宝松本城の前身)の城代に就任した。川中島の戦いでは、山本勘助とともに「啄木鳥の戦法」を立案し、信玄に献策した。また山本勘助より築城術を学び駿河清水城、田中城などの築城を手がけたという。永禄5年(1562)より信濃牧野島城に在城し、越中国の親武田方との連携や、海津城の高坂弾正とともに上杉謙信の監視を行った。山県、原、内藤とともに、信玄・勝頼を支えた。長篠の合戦では、殿軍を担い、勝頼を逃がすため奮戦して戦死した。その戦いぶりは織田方も称えた。 |
馬場美濃守信春
(?〜天正3年5月21日) |
→馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓)
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