林城から深志城へ(山城と平地城)
戦国時代、各地で盛んに山城が築かれます。山城は戦乱の時代において戦争の基地として、また防御のための施設として生まれました。松本地方においても、それまで平地にある井川城に居を構えていた小笠原清宗は林城を築き、居館をその麓に移します。
現在山辺谷を中心に松本市域東部に多く分布する山城はいずれも小笠原氏やその配下の武将らによって戦国時代に設けられたものです。郭と呼ばれる空間が一ヶ所から数ヶ所連なり、最後の砦となる主郭はとりわけ大きく平坦で、時には建物もあったようです。郭と郭の間や麓から郭までの斜面には何本もの空堀や土塁(土手状の囲い)が設けられ、敵の侵入を許さない構造になっています。こうした戦いのための施設である山城には日常の生活施設はなく、通常は城の麓に居住地が置かれました。
市域の山城には郭に石垣が築かれるものがありますが、これらは高度な最新技術を伴った松本城の石垣とは異なり、松本地方独自の技術によるものです。また武田氏の侵攻によりこの地域の支配拠点は平城(平地の城)である深志城に移り、あたかも山城の時代は終わったかのように受け取られがちですが、最近の研究では武田氏滅亡後の混乱期、小笠原貞慶による支配が安定するまでの間は山城に次々と手が加えられ、戦闘基地として使用されたようです。先にふれた石垣も大半は小笠原貞慶の時代に設けられたものといわれています。
山城は戦乱の世が終結するとともに放棄され、松本城に代表される近世城郭としての平城の時代へと移行、次第に戦闘的な要素も薄れていきます。
(松本城内:日本民俗資料館記載資料より)
小笠原貞慶と松本城
小笠原長時の敗北により府中を手に入れた武田晴信(信玄)は深志城を安曇・筑摩郡の支配拠点とし、城の改修を行います。松本城にみられる丸馬出しや枡形などの施設は武田氏の築城技術に拠るものと言われ、山城に比べて防御性の低い平城を守るための巧みな施設として設けられたものです。
天正10(1582)年の武田氏の滅亡、さらに本能寺の変による織田信長の滅亡により信濃の地は再び混乱します。このとき、越後の上杉氏は信長の安堵により深志城に入っていた木曽義昌を追い出し、小笠原貞種を入城させます。一方徳川家康のもとに身を寄せていた小笠原貞慶も府中の回復をねらい、貞種に失望した小笠原譜代衆の求めもあって府中に侵攻し、33年ぶりに父祖の地を回復、深志城を大幅に拡張整備し深志を「松本」と改名します。
貞慶は深志城を奪還した後も数年間は対抗勢力の一掃に努めます。また、民心を安定させ支配を強固とするために積極的に寺社への寄進や安堵を行います。
(松本城内:日本民俗資料館記載資料より)
松本城といえば、国宝に指定されている現存の天守閣があって「重要な史跡」なのですが、私にとっては松本城は武田氏の時代以降に「復元?」されたものであり、小田原城などと同類に思えてしまうのです。私が関心を寄せるのはあくまでも武田家にとって信濃支配の中心となった深志城なのです。
しかし上記にもあったとおり、丸馬出しや枡形などの施設は武田の時代のなごりとのことであり、今回は確認することができなかったので今後の課題です。
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