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長野県長野市

牧之島城


2015年06月13日

本丸跡

牧之島城案内図

御前水井

本丸跡

城は、南、西、北の三方を犀川がめぐり、東部一方が山部に続く舌状台地のほほ中央にあり、自然の断崖絶壁と深沢を利用し、これに人工の堀を加えた平城である。現存する遺構は武田信玄が、甲州流兵学者で築城術に勝れた馬場信房に築かせたもので、江戸時代に記された書物「千曲真砂」には、この城を「甲州流の軍者甚秘の城取となすなり、大兵籠もって狭からず、小兵籠もって広からず、云々」と記し、築城の妙を極めたものと賞している。
長野県指定文化財調査報告によれば、
・本丸東の高土塁中程に、千人枡と称する隠れ桝形がある。
・千人枡から堀を渡った丸馬出しは三日月形の堀と内側に土塁跡を残している。
・丸馬出しの東方に大手口があったことが知られ、大手口から東に一様な屋敷割が続いている。
・その先に東西に通る深堀がある。
この遺構は甲州流の築城法を今日に伝え、付近には小規模ながら町並みがあり、近世大名の城下町の原初を示している。

昭和41年3月長野県史跡に指定され、昭和47年から51年にかけて史跡保存のため大規模な整備が行われた。
(看板資料より)


桝形

二の丸跡


三日月堀

牧之島城は、北・西・南の三方を蛇行する犀川に囲まれ、南と北は侵蝕による断崖が連なり、東方だけは開口しているものの、ここには深い谷が南北に走り、要害の場所に築かれた城である。東方の痩せ尾根を断ち切れば、松本−善光寺間を押さえるのに絶好の適地であり、その地形は佐久の岩尾城や伊那の高遠城のある場所に似ている。
この地には滋野系香坂氏が勢力を張り、軍事上、格好の場所である牧野島に居館(牧城)を構えていた。ところが永禄4(1561)年、武田信玄によって香坂氏は誅伐されたので、その名跡は同氏の娘婿春日弾正虎綱が継ぎ、この地は深志城将馬場信房が守備を兼ねていた。
牧之島城の築城について『千曲之真砂』巻七は、「永禄5年8月28日、武田信玄が馬場景政に命じて築かせ、百五十騎で守った」と記し、『甲斐国志』では「永禄9年10月、馬場美濃守が城代になった」としており、諸説がある。
天正3(1575)年の長篠合戦で、馬場信房は討死。翌年その子信春が城将となり、地侍平林正恒も武田勝頼の命令で在城した。同10年、織田信忠軍の攻撃で深志城を逃れた信春は殺され、平林正恒らは上尾城にいったん退いたが、上杉景勝の援助で牧之島城奪い返した。天正10年の本能寺の変後、川中島平を制圧中の森長可が上洛したので、景勝はこの地の諸士を服属させようと図った。そのため小笠原方との境目の城として重要性を増し、芋川親正が在城した。
(看板資料より)

三日月堀


木橋

千人桝形

空掘


空掘

空掘

 



2003年09月
22日

 

この城は、永禄9(1566)年武田信玄が馬場信房(美濃守)に築かせ、越後に対する警衛と更科・水内山部の鎮撫にあてた城である。
元香坂氏の居城牧城の一部で、犀川の大拗曲部を利用して新たに縄張りしたもので、虎ノ口の丸馬出し、本丸脇の隠れ馬出し(千人桝)をはじめ、諸所に築城の妙をこらしている。
天正3(1575)年5月21日信房が長篠に戦死後、子信春在城したが、天正10年武田氏滅亡後、上杉景勝の属城になり、芋川親正父子等が置かれた。
慶長3(1598)年景勝の移封後、海津城主田丸直昌・森忠政等がここを管し、慶長8年海津城主になった松平忠輝は、はじめ老臣松平信直に在城させたが、元和2(1616)年忠輝が罪によって改易(所領没収)されると共に牧之島城も廃城になり、築城以来50年で城郭としての機能を失った。
(看板資料より)

 

国道19号線を長野から松本方面に進み、信州新町役場を過ぎてしばらく行ったところに牧之島城の看板が出て来るのでそれに従って左折して坂を登っていくと神社の鳥居と牧之島城の説明板があるところに出ます。(上の写真)


そこを過ぎると右側に駐車場がありますが、ここが三ノ丸になっています。三ノ丸の駐車場から橋を渡ると千人桝形があって本丸、二ノ丸へ続き、橋を渡らずに土塁を隔てて反対方向には三日月堀が配されています。(写真下)

三日月堀は駐車場の入口付近からも見ることができますし、逆に三ノ丸の奥の方からも確認することができます。(一番上の写真)


橋を渡って千人桝形を通過して本丸に出ると奥には御前水井があり、更にその奥から土塁に登って右の方に進むと馬場信房之城址の碑があります。また本丸から右の方に行くと堀にかけられている橋を渡って広場になっていていてここが二ノ丸になっています。


また、三ノ丸(駐車場)の奥の先には犀川が見え、思ったより高い所に城があったことが分かります。

 
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