田中城下屋敷 |
2001年10月08日 田中城は今から500年ほど前、この地の豪族である一色氏が今川氏の命を受けて、その屋敷を拡大して城としたのがその始まりだといわれています。その後、武田氏の手に落ち、さらに江戸時代になって四ノ堀が増設されて、直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円形をした城ができあがりました。現在、市立西益津小学校が建っている場所がかつての本丸で、江戸時代には4万石程度の譜代大名が城主となって、志太平野の村々を治めていました。しかし明治維新によって田中城は廃城となり、城跡も民間に払い下げられました。 |
田中城本丸櫓
この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物があったことが記録に見え、これに該当するもののようです。 |
仲間部屋・厩
古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてきましたが、調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだとわかりました。 |
茶室
この茶室は明治38年頃、千歳の村松家にあったものを上伝馬町の奥野氏が譲り受け、屋敷内に移築したといわれています。もとは田中藩家老の茶室であったと伝えられていますが、下屋敷にあった「茶屋」とみられています。 |
長楽寺村郷蔵
郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常米を保存するための蔵で、江戸時代には村ごとに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。 |
亀石
下屋敷には鶴石と亀石があったと伝えられています。鶴石の所在は不明ですが、亀石は30年程前偶然にも掘り出されました。
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