岩田山城址は、大井川(栃山川)の流れを前面に控え、西から東へ走る岩田山の南側斜面にある。現在、岩田山城に関係する史料的な裏付けは皆無であるが、城の位置・発掘状況などから推測して、ここが城址だったとみてまちがいないであろう。
岩田山城の築城年代は天正3(1575)年以後と推定される。当時、遠江から西駿河への交通路は、掛川から小夜の中山-菊川宿-牧野(之)原-湯日(ゆい)谷などを経て初倉荘の色尾(いろお)から志太(しだ)平野に出るコース、今一つは榛原郡南部の海岸線から小山に出て北進し、色尾から江留に至るもので、後者は戦国時代に駿河と遠江を結ぶ最短コースであった。この二つの街道を押さえるために、天正初期、武田氏は北に諏訪原、南に小山の両城を置き、徳川氏に対して備えた。
天正3年5月21日、武田軍は三河長篠において織田・徳川連合軍によって大敗北を喫し、続いて遠州への押さえ、特に徳川軍が占拠する掛川城方面監視のため設けられた諏訪原城も同年8月24日(『豊橋市史』五所収「参河国聞書」)徳川氏の手中に落ち、家康はこの諏訪原城(牧野原城と改名)を前進基地として湯日谷より色尾(『家忠日記』には伊呂)から大井川を渡河、西駿河の田中城および持舟城に向かって肉薄した。武田氏は、この徳川軍に対するため、また敵勢を撃退する目的で岩田山城を構えたと考えられる。
岩田山城はほぼ南西向きに構えられた。色尾から駿河に向かう小山街道(色尾街道、陣屋街道)が走る一帯は、大井川によってできた平野部で、なにひとつ妨げるものもなく一望できる地形にある。
(日本城郭大系より)
【旧郷社 岩田神社の由緒】
祭神 天照皇大神
豊受大神
大化2(646)年、孝徳天皇の御代、時の大織冠(当時の最高官位)の藤原鎌足公が蘇我入鹿誅罸の時、諸国平定鎮護のため伊勢大神宮の御分霊を勧請し、創建され神貢百束を賜った。
徳川時代に入り慶安2年、時の三代将軍家光公より石三石五斗竹木山林を社領とする御朱印状を賜り、第十四代将軍家茂公まで続いた。明治8年2月、十四ヶ村(旧青島町)の郷社に列せられた。
明治14年6月、神輿を造営し各村氏子の無病息災・平安を祈願し四年に一度の神輿の渡御が斎行されてきました。
往古より東方の人等が伊勢神宮参拝の往路に大井川の出水により川止めされた人々が島田藤枝の宿に逗留を余儀なくされ、そのため岩田神社に代参をすませて帰郷したと言われ、遠方近在から尊崇された由緒ある古い歴史のある神社であります。
又、二十数年前、鎮座地岩田山の古墳から考古学上貴重な太古の土器・装飾品等が数多く発掘され、往時の歴史の一端が偲ばれます。
(看板資料より)
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