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静岡県藤枝市

田中城

田中城本丸跡
田中城は同心円形に四重の堀と土塁で造られていたが、本丸は四角で480坪(1580u)と小さく、本丸内には御殿やお亭のみで天守閣のような建物はなかった。
(看板資料より)

田中城案内図

田中城址は、藤枝市街地の東、焼津市保福島と境をなす同市西益津小・中学校敷地内で、現在遺構は一部を残すだけである。永禄13年正月駿河国西部に残存する今川方の属城を攻め落とすべく侵入した武田信玄の軍勢によって攻略された徳之一色城(守将長谷川紀伊守正長)を増築したものである。「甲陽軍鑑」元亀元年正月の条に、「藤枝のとくのいつしきあけてのく、是は堅固の地なりとて、馬場美濃守に被仰付、馬だしをとらせ、田中城と名付、暫番手持也」とある。
田中城は、低丘陵の頂部に方形の曲輪(本丸)を中心軸とし、二の丸・三の丸がその周囲を巡る同心円形式の城郭構造である。田中城が亀甲・亀井の別名を付けられた理由は、もっとも外側の、三の丸の全体の形状が亀の甲状であったからである。
永禄13年9月、いちおう増築工事完了をみて、信玄は山県昌景に山西地区支配権を任せて在城させた。
ついで元亀3年信玄は西上作戦を前に板垣左京亮信安をもって山県昌景と交替させており、翌天正元(1573)年、信玄は大井川を境とする徳川氏の領域東端の牧之原台地北端に諏訪原城、南端の片岡郷に小山城を構え、両城を南北に結ぶ線上にある旧今川家時代の旧塁に手を加えて一線上に支城網を巡らし、東から徳川勢力に圧力をかけた。
これらの支城の中心的役割を負ったのが田中城であると思われるが、しかし天正3年に武田勝頼軍が三河長篠で大敗して甲斐に退去した時、この機を逃さず、家康は掛川城に在駐する将兵をもって守備の手薄な諏訪原城を攻め、同年8月24日、諏訪原城は徳川氏の手中に落ちた。これによって徳川軍の西駿河への関門が開かれる一方、駿・遠両国における武田氏の属城はバランスを崩し、それぞれ孤立した。
田中城もこの頃から徳川軍によって波状攻撃をかけられ、各城との連絡も断たれて次第に追い込まれていった。田中城が徳川の軍勢によって激しい攻撃を受けるようになるのは天正6年以降で、徳川勢は掛川・牧野原(旧諏訪原)両城を中継基地とし、大井川の中流、島田市初倉の色尾から大井川を渡河して軍勢を交替に西駿河に送り込み、戦線を駿河府中に近い持舟城まで延長している。これを阻止すべく武田勝頼は同6年頃、瀬戸の岩田山に陣城を構えたがむなしい抵抗であった。
天正10年2月20日、徳川軍は武田方の依田右徳門尉信蕃・三枝土佐守虎吉が主将となって守備する田中城を包囲し、城内外において両軍の激戦が繰り返されたが、武田一門の江尻城主穴山梅雪(信君)が徳川方に寝返り、完全に孤立した田中城主依田信蕃は徳川氏の勧めで同年3月1日に開城した。
(日本城郭大系より)


三日月堀

三日月堀というのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田式)築城法の一つである。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が備え付けられている。
馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居(土塁)を設けて、敵が城内へ侵入するのを防ぐための備えである。従って、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と土塁、その奥の広場、枡形を持った城門の三つが一組になって城の守りを固めていたのである。
田中城には大手一之門・二之門、平島一之門、新宿一之門・二之門、清水御門の外の六箇所に馬出曲輪が備え付けられていた。しかし現在眼にすることのできるのは新宿二之門の外につくられた三日月堀だけで、それも実際の大きなの約2分の1位である。
二之堀に突き出た外枡形を持つ新宿二之門、二之堀と橋、広場、土居と三日月堀で二之丸への敵の侵入を守っていたのである。三日月堀の大きさは長さ45.45m、幅10.00m、深さ1.82mであった。背後の土居は長さ35.45m、高さ2.42mもあった。背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集まり、三日月堀によって二分されて城内に侵入しようとする敵を待ち伏せていたものと思われる。
(看板資料より)

三日月堀
甲州流の築城法の一つに堀と土塁からなる馬出があり、堀が三日月形なので三日月堀と呼ばれる。田中城には6ヶ所あった。
(看板資料より)


田中城二之堀

戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原形が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。
二之堀は、本丸から二重目の堀で、幅は12.7〜21.8m、深さは2.1m〜2.9mでした。この付近は大手二之門の入口にあたり、堀を渡るために長さ5.4m、幅3.6mの大手二之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月堀がありました。
(看板資料より)


大手一之門跡

田中城で一番大きな48坪程度の枡形門で騎馬武者者なら48騎収容できた。
(看板資料より)


三之堀・土塁跡

掻き揚げ堀と土塁で武田信玄が馬場美濃守信房に命じて造ったものと言われている。
(看板資料より)

三之堀・土塁跡

三之堀・土塁跡


田中城 三之堀

戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)を持つ田中城の原形が築かれ、江戸時代初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。
三之堀は、本丸から三重目の堀で、幅は18〜27m、深さは1.7〜4.2m、土塁の高さは、水面からおよそ5mです。堀の北側からは今でのきれいな清水が湧き出ています。この付近は、御館のちょうど西側にあたり、この堀に面した四之曲輪には藩士たちの屋敷が並んでいました。
(看板資料より)


武家屋敷・石垣跡


外堀跡

 
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