積翠寺 |
2013年06月29日 |
積翠寺と要害山
甲斐国志によると開山は行基、夢窓国師の弟子竺峰が中興したという。慶安元(1648)年、仰厳恵高の時代に妙心寺派に転派する。境内に泉が湧き出ていて巨岩から滝になっていたところから、もとは「石水寺」といったが、中世になって現在の「積翠寺」の字が使われるようになった。 |
積翠寺本堂
この建物が本堂です。これも知りませんでした。この右側にある建物が本堂だと思っていました。しかし言われてみればこちらが本堂で右側が庫裏・書院ということがすぐに分かります。 |
不動堂
本堂左手には不動堂があり、不動尊、武田信玄像などが祀られていて、毎年4月には不動尊祭りが行われている。 写真中央にあるのが武田信玄像だそうである。今まで不動堂の存在も知りませんでした。今まではじっくり時間をかけて参拝していなかったせいだと思います。 |
本堂裏の庭園
本堂の裏手には夢窓国師築庭という庭園があり、サツキやツツジの時季には素晴しい景観を見せる。 本堂と不動堂の間、本堂の左側から奥に入っていくと突然その庭園の景色が目に中に入ってきます。本堂の裏と庭園の間には十分な距離が取れないことから先日購入した魚眼レンズで撮影してみました。 |
信玄公産湯の井戸
大永元(1521)年飯田河原の合戦の時、信虎夫人(大井夫人)は戦乱を避け当寺に留りて信玄を出生したのである。その時産湯に使った井戸です。 過去の写真と比べてみると、今回は井戸に蓋がしてありました。現場では気がつかず、写真を比較して分かりました。私の記憶には夢窓国師築庭の庭園は残されておらず、本堂の裏にはこの信玄公の産湯の井戸しかないと思っていました。
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2006年01月01日 |
積翠寺由緒 |
信玄公産湯の井戸
大永元(1521)年飯田河原の合戦の時、信虎夫人(大井夫人)は戦乱を避け当寺に留りて信玄を出生したのである。その時産湯に使った井戸です。 |
信玄公産湯天神
信玄公誕生の節産湯を溢し場所である。石祠三社の中央が産湯の天神。左は不動明王、右は車折明神で当寺の鎮守として安置したものである。 |
積翠寺と要害山
今年は元旦から山梨県に初詣に出かけました。善光寺、東光寺、武田神社の後、そのまま北上して積翠寺に寄りました。ここは武田信玄が生まれたときの産湯の井戸があるところです。積翠寺の看板ではここで武田信玄公が生まれたと書かれていますが、後方の要害山の山頂には東郷平八郎による「武田信玄公誕生の地」と書かれた石碑があります。当時は今川家の臣福島正成が甲斐に侵入して合戦の最中であったため、大井夫人は要害山に詰めていたかもしれませんね。また積翠寺は石水寺ともいわれていたとのことですが、確かに甲陽軍鑑品第四十では石水寺物語という項があります。信玄と家臣らとのやりとりなどが書かれていますが、こういった家臣とのコミュニケーションを行なう場所としてこの積翠寺が使われていたのでしょうか?
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2001年02月18日 積翠寺は、臨済宗妙心寺派の寺で要害山の南麓に位置し古くは石水寺ともいった。開山を行基、中興開山を夢窓国師の弟子竺峰とする。また武田信玄の誕生した寺とも言われ、境内には産湯井戸や産湯天神がある。 |
信玄の産湯井戸
1984年03月29日 |
臨済宗妙心寺行基が開基し、その後夢想国師弟子笠峰禅師が一時衰えた寺を興し武田家の菩提所として再建しました。大永元(1521)年11月3日信玄はこの所で誕生したと伝えられています。寺宝に信玄作和漢連句は文化財に指定されています。寺院裏に釣鐘をふせたような山が見えますが永正17(1520)年つつじが崎の援護地として信虎が築城した要害城跡です。 |