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山梨県甲府市

円光院

2013年09月01日

 
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円光院は、武田信玄公の先祖・逸見太郎清光が創建、清光院と号し、小石和に在り後、武田信守が父・信重の牌寺とし、成就院と改め永禄3(1560)年信玄公が当地に移し甲府五山の一つ円光禅院と改めた。
元亀元(1570)年7月28日
信玄公正室三条夫人が50才で逝去
三条夫人は京都の公家・三条公頼の次女で今川義元の媒酌で、天文5(1536)年、16才で晴信(信玄)公と結婚した。
義信・信親(竜宝)・信之・黄梅院(北条氏政夫人)・見性院Z(穴山梅雪夫人)を生んだ。
信玄公は、天正元(1573)年4月12日伊那駒場の陣中にて53才で世を閉じた。
その時、馬場美濃守信春に遺命され、当院に刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊の陣中守護本尊・愛用の茶器と茶釜一口、武田家源氏系図を寄贈された。
信玄公の遺骸は当院門外の土屋右衛門の邸で密葬、三年後恵林寺へ改葬されたが安永8年密葬の場所を代官中井清太夫が発掘。今に残る墓石が建立された。
碑文は当時の円光院住職が謹誌している。
(看板資料より)


三條夫人の墓

武田晴信公夫人三條氏は大永元(1521)年、三條公頼公の二女として京都三條邸に生まれた。三條家は清華七家のひとつで、極官は太政大臣。父の公頼は明応4年の生まれ、永正7年叙爵、同11年従三位権中納言公26歳の時夫人は誕生した。姉は細川晴元公夫人であり、妹は本願寺光佐(顕如)上人裏方である。天文5年16歳にして同年齢の武田晴信公に嫁した。媒酌は駿河守護今川義元公であった。この年晴信公は元服して従五位下に叙せられた。晴信公夫人となった三條氏は夫との間に太郎義信公、二郎信親公、三郎信之公の三男を儲けた。二郎は盲人であり、三郎は早世した。女子は黄梅院、見性院、真龍院の三女を儲けている。北條氏政に嫁した黄梅院は夫幼児らと生別政略の犠牲となり、穴山信君に嫁した見性院もまた嫡子に夭折され、木曽義昌に嫁す真龍院も戦国の風浪にもてあそばれてしまった。ひとり嫡男義信公は聡明剛毅の資で父を辱しめぬ偉材であったが、夫人を今川家から迎えたため、駿河経略に関して父晴信公と意見が対立し、不幸な運命を辿らざるを得なかった。母としての三條氏の痛恨察するに余りある。二男信親公は半僧半俗の身分として聖道様といわれたのち信州海野家を嗣いだが人格玉の如く慈愛に満ちた性格であったという。この人も武田家の運命に殉じたが武田家の正統は信親公により今日にその嫡宗が認められ、その基づくところが一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公にあることを思えば、三條夫人が妹婿本願寺光佐上人と武田氏との絆として大きな役割を果たしたことと関連して夫人が武田家のために内外における立場をよく利用して大いに尽くされたことが偲ばれる。晴信公は夫人の生前、その牌所として府中五山の一つに圓光院を当て夫人をその開基とした。この寺はもと成就院と言い、八代郡小石和にあったという。
これを永禄年間に晴信公が甲府五山を定めるに際して甲府に移して圓光院と改め説三和尚を東光寺より請じて開山として夫人三條氏を開基としたのである。元亀元年7月28日三條氏が50歳にして没すると晴信公は快川国師を大導師に説三和尚その他の名僧を請じて盛んな葬儀を執行した。
(石碑記載文章より)

 



2013年02月03日

円光院は、武田信玄公の先祖・逸見太郎清光が創建、清光院と号し、小石和に在り後、武田信守が父・信重の牌寺とし、成就院と改め永禄3(1560)年信玄公が当地に移し甲府五山の一つ円光禅院と改めた。
元亀元(1570)年7月28日
信玄公正室三条夫人が50才で逝去
三条夫人は京都の公家・三条公頼の次女で今川義元の媒酌で、天文5(1536)年、16才で晴信(信玄)公と結婚した。
義信・信親(竜宝)・信之・黄梅院(北条氏政夫人)・見性院Z(穴山梅雪夫人)を生んだ。
信玄公は、天正元(1573)年4月12日伊那駒場の陣中にて53才で世を閉じた。
その時、馬場美濃守信春に遺命され、当院に刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊の陣中守護本尊・愛用の茶器と茶釜一口、武田家源氏系図を寄贈された。
信玄公の遺骸は当院門外の土屋右衛門の邸で密葬、三年後恵林寺へ改葬されたが安永8年密葬の場所を代官中井清太夫が発掘。今に残る墓石が建立された。
碑文は当時の円光院住職が謹誌している。
(看板資料より)

武田晴信公(信玄)室三條氏墓
武田晴信公夫人三條氏は大永元(1521)年三條公頼公の二女として京都三條邸に生まれた。
三條家は清華七家の一で極官は太政大臣、父の公頼公は明応4年の生まれで永正7年叙爵、同11年従三位権中納言、年26歳の時夫人は公頼公の二女として生まれた。姉は細川晴元夫人であり、妹は本願寺光佐(顕如)上人裏方である。
天文5年16歳にして同年令の武田晴信公に嫁した。
媒酌は駿河守護今川義元であった。この年晴信公は元服して従五位下に叙せられた。晴信公夫人となった三條氏は夫との間に太郎義信公、二郎信親公、三郎信之公の三子を儲けた。二郎は盲人であり、三郎は早世した。長子義信公は聡明剛毅の資で父を辱しめぬ偉材であったが、夫人を今川から迎えたため駿河経略に関して父晴信公と意見が対立し、不幸な運命を辿らざるを得なかった。母としての三條氏の痛恨察するに余りがある。二男信親公は半僧半俗の身分として聖堂様といわれ、のち信州海野家を嗣いだが人格玉の如く慈愛に満ちた性格であったという。この人も武田家の運命に殉じたが武田家の正統は信親公により今日に継続され、その原づくところが一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公に在ることを思えば三條夫人が妹婿本願寺光佐上人と武田氏との連繋として大きな役割を果したことと関連して夫人が武田家のために内外に於ける立場をよく利用して大いに尽くされたことが偲ばれる。
晴信公は夫人の生前、その牌所として府中五山の一、圓光院を宛て、夫人をその開基とした。この寺はもと成就院と言い、八代郡小石和にあったという。
これを永禄年間に晴信公が甲府五山を定めるに際して甲府に移し圓光院と改め説三和尚を東光寺より請じて開山とし夫人三條氏を開基としたのである。
元亀元年7月28日、三條氏が五十歳にして没すると晴信公は説三和尚を導師に、快川国師その他の名僧を請じて盛んな葬儀を執行した。その時営んだのがこの墓であるといわれる。
(看板資料より)



2001年02月18日

円光院は臨済宗妙心寺派の寺で、信玄の先祖である逸見太郎清光が創建して清光院と号し石和にあった。後に信守が父信重の牌寺として成就院とした。永禄3年(1560)には信玄が現在の地に移設して甲府五山の一つとして円光禅寺とした。
円光院には信玄の正室三条夫人の墓があることで有名。三条夫人は義信、信親、信之、黄梅院(北条氏政夫人)、見性院(穴山梅雪夫人)を産んだが、元亀元年(1570)7月28日に50才で逝去した。
また信玄の遺命により、刀八毘沙門天、勝軍地蔵尊の陣中守護本尊、愛用の茶器、武田家の系図などを円光院に寄進している。(看板資料より)

信玄の正室三条夫人の墓

 
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