飯田河原古戦場慰霊碑 |
2013年09月01日 |
大永元(1521)年駿河今川家の臣福島正成は1万5千の大軍をもって甲斐に進入。9月16日西郡富田城を落としいれ、さらに北上の形勢を示した。武田信虎公は大井夫人を積翠寺要害山城に避難させ、2千の兵をもって荒川左岸飯田河原に陣した。10月10日両軍は激突したが、公のすぐれた指揮と将兵の善戦、領民上下の協力により大勝を博した。勝報を聞いた大井夫人は安堵して11月3日男子を安産した。すなわち晴信公である。敵は態勢をととのえて又も北上し、荒川の西方竜地台に陣した。23日荒川上条河原で二度目の激戦があったが、公以下の健闘によりふたたび大勝し、敵将正成以下六百余を討ちとった。同6年9月公は上条河原の戦跡に敵味方戦死者の供養碑を建てた以来百五十余年、公の偉功はややむすれば忘れられんとしている。ここに有志相謀り、陣場の戦跡に碑を建てて公の威烈を顕彰し、併せて敵味方戦死者の供養に資するものである。
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2005年01月09日 |
大永元(1521)年駿河今川家の臣福島正成は1万5千の大軍をもって甲斐に進入。9月16日西郡富田城を落としいれ、さらに北上の形勢を示した。武田信虎公は大井夫人を積翠寺要害山城に避難させ、2千の兵をもって荒川左岸飯田河原に陣した。10月10日両軍は激突したが、公のすぐれた指揮と将兵の善戦、領民上下の協力により大勝を博した。勝報を聞いた大井夫人は安堵して11月3日男子を安産した。すなわち晴信公である。敵は態勢をととのえて又も北上し、荒川の西方竜地台に陣した。23日荒川上条河原で二度目の激戦があったが、公以下の健闘によりふたたび大勝し、敵将正成以下六百余を討ちとった。同6年9月公は上条河原の戦跡に敵味方戦死者の供養碑を建てた以来百五十余年、公の偉功はややむすれば忘れられんとしている。ここに有志相謀り、陣場の戦跡に碑を建てて公の威烈を顕彰し、併せて敵味方戦死者の供養に資するものである。 飯田河原古戦場慰霊碑がある場所は分かりづらかったです。場所は県立中央病院の西側ですが、南北に走っている道路から少し川に入った細い道沿いにありました。 |
→飯田河原合戦供養板碑
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