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山梨県甲府市

攀桂寺

2005年09月11日

曹洞宗遊月山攀桂寺
当山は開山宗祖道元14世法孫道威元亀2年5月跡部伊賀守信秋の創立で、はじめ穀蔵寺と称したが後に信秋の舎号攀桂斎をとって攀桂寺と改めた。跡部氏は甲斐源氏小笠原長清の長男伴野六郎時長の二男孫六郎長朝が信濃佐久郡跡部に住して氏姓としたと伝えられる。跡部氏の甲斐往来は応永の末ごろ騒乱していた甲斐の国に小笠原政康が武田信元・信重の入国を援助し、その折庶流の跡部氏を守護代として往来せしめたといわれる。
当山に伝えられる跡部氏系図によると信秋は小笠原大膳大夫持長三男の宗長−宗勝(武田信守・信昌・信縄に仕え司財礼為執権)−信秋(武田信虎・信玄に仕え甲斐国内九ヶ邑・山宮・千塚・羽黒・湯村・荒川・中村・金竹・長松寺・長塚を所領)と記されており武田家の重臣の一人であったと考えられる。
(看板資料より)

跡部伊賀守信秋の墓

跡部信秋は跡部大炊助勝資の父親です。攀桂寺に到着して本堂横の玄関で何度かベルを鳴らしてみましたがご不在のようだったのでしかたなく墓地を歩きまわってみました。しかしそれらしき墓地を見つけることができず、再びベルを鳴らしてみたところ、住職と思われる方に会うことができました。そして墓地の場所まで案内していただき、上の写真を撮影しました。ちょうど住職の墓である「攀桂寺世代塔」の敷地にあります。歴代住職の墓は墓石の上が丸くなっていますが、そうではない墓石が目印になります。

 

 
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