東光寺 |
2005年01月09日 |
法蓋山東光寺といい臨済宗妙心寺派のお寺であり甲府五山の一つである。伝えによれば新羅三郎義光が保安2年(1121)に国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸道を建立、本尊に釈迦如来を安置し、興国院と名付けたことに始まるとのこと。 |
東光寺の歴史 |
仏殿
東光寺仏殿は、国指定の重要文化財で武田氏に保護され天文年間(1532〜54)、信玄の援助で諸堂が再興されたといわれ、甲府五山の一つとして盛観を誇った。天正10(1582)年4月、武田滅亡後、織田信長は甲府善光寺に本陣を置き、東光寺を焼いた。しかし不思議に仏殿だけが焼け残った。仏殿の中の柱に織田軍が乱入した時の刀きずが残っている。 |
庭園
県内寺院の庭園で、ずばらしい庭園といえば、夢窓国師の作庭であるという見方が一般的であるが、東光寺庭園は、蘭渓道隆の作庭である。 |
武田義信の墓
武田義信公と東光寺 |
諏訪頼重の墓
諏訪頼重公と東光寺
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2005年01月09日 |
東光寺庭園 |
東光寺仏殿
東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。仏殿は天正10(1582)年の織田信長の兵火及び昭和20(1945)年の戦災を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかではないが、様式からみて室町時代の建築とされている。 |
東光寺仏殿内部の様子
木造薬師如来坐像 |
武田義信の墓
義信ハ晴信ノ長子。天文7年ヲ以ッテ生マル。母ハ三条夫人ナリ。永禄8年故アツテ幽閉セラレ、同10年逝去ス。東光寺殿籌山良公大禅門ト云ウ。 |
諏訪頼重・禰々の墓
諏訪頼重ハ天文11年7月武田氏ニ亡ボサレ甲府板垣信形邸ニ幽閉セラレ7月20日ニ自尽セリ時27才祢々夫人ハ武田信玄ノ妹ニテ翌12年正月19日16才ニテ歿ス 二人墓ナリ 向って右側が諏訪頼重の墓であり、その左側にある小さな墓が諏訪頼重夫人である禰々の墓といわれています。禰々は武田信玄の妹であり、16才で亡くなったとのことです。2人の間には寅王が生まれましたが、武田信玄の諏訪攻略戦の際に担ぎ出されて利用されました。その後の消息は不明とのことです。 |
東光寺には、武田信玄の長男義信の墓と武田信玄が滅ぼした諏訪頼重の墓が並んでいる。考えて見れば、諏訪頼重は義信失脚後武田家を継いだ勝頼の祖父にあたる人であり、この二人は隣同士に墓を並べてあの世でどんなことを語り合っているのでしょうか?
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2001年02月18日 |
法蓋山東光寺といい臨済宗妙心寺派のお寺であり甲府五山の一つである。伝えによれば新羅三郎義光が保安2年(1121)に国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸道を建立、本尊に釈迦如来を安置し、興国院と名付けたことに始まるとのこと。 |
東光寺仏殿
仏殿は天正十年(1582)の織田信長の兵火や、昭和20年の戦災を免れて今日に伝えられている。建立された時期は不明だが様式からみて室町時代のものとされている。 |
諏訪頼重の墓
信玄の長男である武田義信の墓
→本能寺
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