倉賀野城 |
2014年08月03日 |
治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り居館を構え以来倉賀野を氏となす。応永年中に至り室町幕府漸く衰え、戦雲諸国を掩ふ。為に倉賀野三郎光行防御急なるに迫られこれを改修し様が居となす斯くして高祖三郎高俊より400年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く。然るに時移って戦国動乱の世を迎ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへども噫々武運は空し天正18年相州小田原に討死城も亦ともに興亡の歴史を閉づ今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁じ得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ。 |
武田信玄による本格的な上野攻略は永禄4(1561)年頃から始まったと言われます。永禄4年といえば9月に第4次川中島合戦が行われた年ですが、この年の秋には松原諏訪神社に上野出兵の戦勝祈願を行って上野に進出して倉賀野城を攻めましたが落とすまでには至りませんでした。翌永禄5(1562)年にも攻撃しますが、その後の鉾先は松山城や岩櫃城などに移り、これらの城を攻略します。しかし永禄8(1565)年にとうとう倉賀野城の攻略に成功し、上野攻略の拠点として倉賀野城は重要な役割を果し、翌永禄9(1566)年には念願の箕輪城攻略を果すことになります。
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2005年05月01日 |
治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り居館を構え以来倉賀野を氏となす。応永年中に至り室町幕府漸く衰え、戦雲諸国を掩ふ。為に倉賀野三郎光行防御急なるに迫られこれを改修し様が居となす斯くして高祖三郎高俊より400年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く。然るに時移って戦国動乱の世を迎ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへども噫々武運は空し天正18年相州小田原に討死城も亦ともに興亡の歴史を閉づ今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁じ得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ。 |