箕輪城 |
2014年08月03日 |
歴史 |
本丸
本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。 |
本丸馬出し
東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。 |
御前曲輪
御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。 |
箕輪城将士慰霊碑
この郭は本質的には本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持佛堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを追ったと伝えられているように、箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。西南隅には櫓があったと思われ、壕内に石垣が残っている。 |
御前曲輪井戸
昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。 |
御前曲輪北堀
ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。 |
搦手口
搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも馬出しがあった。 |
新曲輪
本丸堀の橋台
本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。南側に石垣が昔のまま残っている。 |
蔵屋敷
蔵屋敷は備蓄穀物を保管する建物のあった場所だと考えられますが、一説によると、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三の丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃するための拠点であったと推定されています。 |
三の丸門跡と石垣
城中の石垣で、比較的良く残っているのはここである。 |
二の丸
二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。 |
三の丸
大堀切
この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。 |
郭馬出
郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。 |
木俣
通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。 |
虎韜門
虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名づけたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。古図によればこの南に馬出しがあった。 |
白川口埋門
虎韜門から白川河原に出る秘密の通路で、西部城外への道はここ唯一である。虎口(出入口)の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛り、トンネル式に作った門を埋門という。
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2004年04月03日 |
歴史 |
虎韜門
虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名づけたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。古図によればこの南に馬出しがあった。 |
鍛冶曲輪の石垣
鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを作製、修理した。このような石垣は城内各所に見られる。 |
本丸堀の橋台
本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。南側に石垣が昔のまま残っている。 |
御前曲輪北堀
ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。 |
御前曲輪
御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。 |
本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。 |
この石垣は、土塁の土が崩れないように作られたものです。三段ほどに積まれ堀にそって長く続いているようです。石垣の上は「犬走り」と呼ばれる通路になっています。城の改築のときに作られたものでしょうが最近の発掘でみつかりました。 |
本丸門馬出し
東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。 |
二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。 |
大堀切と土橋
この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。 |
郭馬出
郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。 |
木俣
通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。
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