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愛知県豊橋市

賀茂神社

2008年03月16日

本願寺の方に教えてもらったので寄ってみました。彼女の話ではここら辺では大きな神社で、武田信玄に敗れた徳川家康が逃げ込んだという伝説があるとのことでした。本来の駐車場とは別の小さな駐車場に車を止めて赤い橋を渡って境内に入っていきました。途中、古墳跡などもありましたが2つある参道のうち向かって右側の参道をまっすぐに進んでいくと賀茂神社の本堂がありました。突然馬が現れて驚きましたが、子供が大きな馬に乗って練習をしていました。賀茂神社本堂の中に入ってみると向かって左側に看板があり、その奥には古い木があってちょうど人が隠れることができる空洞がありました。看板の説明によればこの木の空洞の中に徳川家康が隠れたのだそうです。


賀茂神社

天平元(729)年創建といわれ、京都賀茂別雷神社から勧請された古い歴史と伝統のある神社です。徳川家康に関係が深く、遠州入国や長篠合戦の際に参拝したといわれています。
(看板資料より)

永禄11(1568)年、徳川家康、遠州入国に際し参詣。武運長久を祈願し日本一の大旗を奉納する。
天正元(1573)年、家康野田城の戦いに利有らず当社に難を避け、大楠の空洞に身を寄せ一命を完うす。
慶長8(1603)年、家康天下を平定し征夷大将軍となるや朱印百石を寄進す。
(看板資料より)


この御神木は楠にして、樹齢凡そ千年以上と推定される。往古は枝葉天を覆う巨木なりしも、落雷、台風等により損傷し樹勢とみに衰え、今は僅かに空洞の一部を残すのみとなれり。
天正元年1月7日、徳川家康公野田城の合戦敗走し、この御神木の空洞に潜まれ、あやうく危地を脱せしと言う。公、これ御神霊の御加護と崇敬浅からず。関ヶ原戦後天下を掌握するや、慶長8年9月神領高百石の御朱印状を寄進される。
(看板資料より)


山本勘助晴幸生誕地
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