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愛知県豊橋市

本願寺

2008年03月16日

山本勘助の両親の墓があるとのことで今回立ち寄りました。山本勘助晴幸生誕地やこの本願寺があるところは道が狭く車を止めておくスペースもないので、「山本勘助生誕地」の案内板があるところに車を止めて歩きました。

門の入口で山本勘助の両親の墓の位置が説明してありました。これのおかげでお寺の人に聞くことなく山本勘助の両親のお墓を参拝することができました。その後、本堂の方に行ってみたところお寺の方が声をかけてくれて少しお話しを聞かせていただくことができました。


山本勘助両親の墓

山本勘助の両親の墓といわれている墓石は正面中央が削れてしまっていましたが、右側に天正3年云々、左側には天正8年云々と彫られているのが分かりました。
山本勘助の両親の位牌といわれているものも見せていただきました。

山本勘助両親の位牌

本堂の中には山本勘助の木造や、幼い頃の源助といったころの像もありました。また、豊橋に残っている各種資料の写しや山本勘助が豊橋市賀茂の出身であることを報道した新聞記事なども展示されていました。

口上之覚 安永元(1772)年
永禄4年9月10日の川中島合戦で逝った山本勘助の二百年忌追善法要を執り行うにあたり、勘助公の旧墓がある高畑の地に塔婆を立てることを届け出た時の文章。
(現地説明文書より)

山本氏碑文並びに銘 元文4(1739)年
現在、長野市松代町柴にある山本勘助公の墓石(台座)に刻まれている碑文の原稿ともいえる文書である。
(現地説明文書より)

山本道鬼入道事跡並びに古墳中興之記 元文4(1739)年
山本勘助公の事跡と旧墓の荒廃を憂えた松代藩士の鎌原重栄と原半兵衛正盛が、自らの私財をなげうって、信州埴科郡寺尾柴阿弥陀堂の境内(現在の墓地)に建立した経緯が記されている。
(現地説明文書より)


医王山本願寺(曹洞宗)略縁起
医王山本願寺(豊橋市賀茂町)の創立は不明であるが、元は天台宗の古刹であったと思われる。開山の弧雲玄峯大和尚の時、曹洞宗寺院に再興改宗され、豊川妙厳寺末寺となったものと思われる。本尊は薬師如来像で、十二神将とともに時代のある雄健の作である。堂内脇檀に弘法大師、賓頭蘆尊の古像が安置されている。現在の本堂は明治元(1868)年の再建と伝えられ、庫裏は大正元(1912)年に建てられたものである。境内の観音堂は境外村持であったのを、明治維新の際、移したもので観世音菩薩立像厨子入、脇檀に三尺坊、叱枳尼天が祀られている。また境内には銅製の観世音等身立像が安置され、石写法華経が埋納されている。墓地内に武田信玄の軍師山本勘助の父母の碑と称する墓があり、その側に後世建てた山本家歴代の墓があり、中央に大字で「天徳院武山道鬼大居士」と勘助の法名が刻んである。戦災は免れたが、農地改革により耕地一町二反歩を失った。現在の過去帳は寛永元(1624)年からのものが存在する。
また、本願寺近くの鶴巻には、大正4(1915)年に愛知県が建てた「山本晴幸生誕地」の石碑がある。
(本願寺で頂いたパンフレット資料より)

武田信玄の軍師といわれた山本勘助の両親の墓があるお寺です。今も山本家の菩提寺となっています。
(賀茂神社の看板資料より)


山本勘助晴幸生誕地
賀茂神社
長谷寺

 

 
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