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愛知県豊橋市

山本勘助晴幸生誕地

2008年03月16日

山本勘助の生誕地があるとのことで今回立ち寄りました。最初は狭い道に車で乗り入れて現地に到着したのですが、車を止めておくスペースが無かったので「山本勘助生誕の地」の案内板のところに車を止めて現地まで歩きました。
現地には立派な石碑があって「山本晴幸生誕地」と書かれていました。石碑の下には土が盛られていました。また向かって右側には看板があって説明文が書かれていました。後で本願寺の方に聞いた話によると、石碑には山本勘助生誕地ではなく、山本晴幸生誕地と書かれていて俄かに大河ドラマの影響で作られたようなものではなく、大正天皇即位の記念で建てられたものであるとのことでした。ちなみに静岡県富士宮市にある山本勘助誕生地は大正の終わり頃のものなのでこちらの方が若干早く名乗りを上げているともおっしゃっておられました。


武田の軍師 山本勘助晴幸生誕の地

山本勘助の先祖は清和天皇の後裔、森羅三郎義光の3世、山本遠江守義貞から出たと言われています。家は代々駿河国富士郡に住み、山本伝次郎幸綱になった時、三河八名郡賀茂荘の2500石を与えられ、賀茂の照山に住み着きました。この人が山本家第1代で、現在本願寺に墓があります。第2代は山本帯刀といい、前記を領して賀茂神社の神官をしていました。第3代は山本藤七郎光幸といい鶴巻に住むようになりました。この人には3人の男の子があり、長男を清七、次男を清助、三男を源助といいました。この源助が勘助の幼名です。山本勘助は、明応9(1500)年8月15日にこの地で生まれました。
(看板資料より)


勘助の出生地
勘助の出生地と伝えられる場所は全国にいくつかありますが、その中でも三河賀茂(豊橋市)と駿河山本(静岡県富士宮市)が史料的にみると有力な説といえます。三河賀茂を勘助の出生地とする史料としては、「三州牛久保より出申候山本勘助先祖之覚」、「牛久保密談記」があり、それらによれば勘助は明応9(1500)年に山本図書(「牛久保密談記」では藤七郎)の三男として賀茂で生まれたといいます。これに対し駿河山本を出生地とする「甲斐国志」の記述では、明応2(1493)年に駿河国富士郡山本村の吉野家から出た山本貞幸の四男として誕生したとしています。また「甲陽軍鑑」に勘助のことについて「三州うしくぼ侍」と記述していることから、牛久保(豊川市)を出生地とする説もありますが、これを裏付ける史料は今のことろありません。豊川市賀茂町には、山本晴幸(勘助)生誕地の碑があり、近接する本願寺には勘助の父母のものと伝わる墓があります。同じく賀茂町にある照山城跡は、「三河国二葉松」に勘助の出生地であるとされています。
(長谷寺資料より)

山本勘助は、この地に生まれ、牛久保の大林家の養子になり、諸国武者修行ののち武田信玄に仕え、信濃攻略に功績があったといいます。この碑は大正4年11月に地元有志により設立された碑です。
(賀茂神社の看板資料より)


山本勘助誕生地(静岡県富士宮市)
本願寺
賀茂神社
長谷寺

 

 
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